コロナ禍の不安の中で、自粛と閉じこもりの生活が続いている。窓越しに見る風景にも飽きて、「窓」についてあれこれと思いめぐらせていた。まず思い出すのが、淡谷のり子の「窓を開ければ 港が見える」で始まる「別れのブルース」。古い話だが、この歌は私の生まれた昭和12年に発表された。84年の歴史を刻む我が人生の応援歌のような歌である。
窓の話などきりがないが、私の度重なる入院生活で窓から見た風景が忘れられない。小学6年生の時に右大腿骨骨髄炎で入院、病室の窓から見た満開の桜と聞こえてきた「青い山脈」のメロディー。62歳の時はバイクの自損事故で骨盤骨折。この時は重りをつけてのけん引治療が、窓から見える工事現場のクレーンの動きと重なった。8年前は段差につまづいて大腿骨骨折の重傷。5階の病室の窓辺にやってくる雀たちに癒やされた。
昨年末に出版した拙著『人生の並木道』を、かつての教え子の母親に送ったら次のような手紙をいただいた。「中学校でお世話になった長男は大学生の時、心の病で中退し、その後7年間家にいて昨年から仕事に行くことができました。リクルート派遣ですが、息子は『自分の心の窓を開けたのだ』と、ご本の中の『病室の窓から』を読んだ後、涙があふれて止まりませんでした。先生の人の奥にある優しさを読み解こうとなさるお気持ちが、私の心を平らかにしてくださるのだと思います……」
窓は採光と通気を取り入れる役割をもつが、私にとって窓は、視野拡大のツール(手段)でもある。何かに行き詰まって心が塞ぐ時、自分の前にある窓を開けて新しい世界を見たい。それはまた、自分の心の窓を開けることでもある。主イエスは言われた。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ7:7=口語訳)
門を窓に言いかえて、この言葉をより深く味わいたい。窓の姿はいろいろで、日常の中で向き合うさまざまなものが窓となる。1冊の本、今日の新聞、テレビの画面などなど、そして究極の窓は聖書であろう。窓を開ければ何が見えるか。コロナ禍で閉塞的な状況だからこそ、このよどんだ空気を一掃するために、思い切って窓を開けたい。そこから差し込む光の中に身を委ねて、新鮮な気分で一歩足を進めたい。
かわさき・まさあき 1937年兵庫県生まれ。関西学院大学神学部卒業、同大学院修士課程修了。日本基督教団芦屋山手教会、姫路五軒邸教会牧師、西脇みぎわ教会牧師代務者、関西学院中学部宗教主事、聖和大学非常勤講師、学校法人武庫川幼稚園園長、芦屋市人権教育推進協議会役員を歴任。現在、公益社団法人「好善社」理事、「塔和子の会」代表、国立ハンセン病療養所内の単立秋津教会協力牧師。編著書に『旧約聖書を読もう』『いい人生、いい出会い』『ステッキな人生』(日本キリスト教団出版局)、『かかわらなければ路傍の人~塔和子の詩の世界』『人生の並木道~ハンセン病療養所の手紙』、塔和子詩選集『希望よあなたに』(編集工房ノア)など。