『スペクタクルの社会』と、フェイクニュースの時代
「フェイクニュース」という言葉が、まるで何かの運命でもあるかのようにして私たちの時代に取り憑いて離れないことには、一体、どのような必然性があるのでしょうか。現代社会の分析をテーマにした古典であるギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』から、手がかりとなる言葉を取り上げて考えてみることにしましょう。
「現実に逆転された世界では、真は偽の契機である。」
ギー・ドゥボール
ごく短い文章ではありますが、上に掲げた言葉(「テーゼ9」)のうちには、1968年周辺の嵐の時代を生きたドゥボールの思想の重要ポイントが凝縮されています。私たちは①現代の世界における「逆転」とはどのような事態を意味するのか、②「真が偽の契機になる」とは何を意味するのか、の二点に分けて、この言葉を読み解いてみることにしましょう。
①スペクタクルの社会と、「逆転された世界」
ドゥボールが言うところでは、私たち現代人が生きているのは「スペクタクルの社会」とでも呼ぶべき世界にほかなりません。「スペクタクル」という言葉は、直接には「見世物」のことを意味しますが、目を引くものや話題に上りやすいもののことを指しています。今風に言うならばさしずめ、「瞬く間にアクセス数を上昇させるコンテンツ」あるいは「炎上しかねないほどに興味を煽るもの」とでも言い換えることができるかもしれません。
この意味での「スペクタクル的なもの」が私たちの世界をすでに席巻してしまっていることについては、反論のある人はほとんどいないことでしょう。私たちが生きているこの現代においては、狭い意味でのエンターテインメントだけでなく、政治や経済、社会問題、商品広告からニュースの報道に至るまで、人間のあらゆる活動が「スペクタクル的なもの」の巻き起こす喧騒のうちに飲み込まれつつあります。
このことがエスカレートしてくると、人間は今や、自分たち自身の生きる目的がスペクタクルそのものででもあるかのように活動しはじめ、スペクタクルの原理にもとづいて繰り広げられる絶え間のないお祭り騒ぎの召し使いにすぎないかのように行動するようになります。ごく身近な例でいうならば、「わたしは果たしてSNSと『うまく付き合えて』いるのだろうか、あるいは本当は、自分でも気づかないうちにSNSの単なる奴隷に成り下がってしまっているのではないか」という複雑な思いを抱いたことのない人は、ほとんどいないことでしょう。人間の方が偉いと思っていたら、いつの間にか、スペクタクルの方が人間を従える王様になってしまった。それが、ドゥボールが「逆転された世界」という表現を通して、私たちに伝えようとしていることの意味であるといえます。
②真実が価値を持たなくなるとき?
こうして到来してしまった「スペクタクルの社会」ではごく自然な流れとして、真実らしいものよりも人の目を引くものの方がもてはやされるようになってゆき、その結果、本当のことを言ってはいるがつまらないものよりも、少しくらいウソであってもエンターテインメント性が高いものの方が、どんどん前面に出てくるようになる。スペクタクルの社会においては「真は偽の契機である」とドゥボールが主張するのは、こうした憂慮すべき事態を踏まえてのことにほかなりません。
ごく分かりやすい「フェイクニュース」や、いわゆる陰謀論といったものだけが問題なのではない。たとえば、文脈から切り離された言葉が一人歩きしてとてつもない炎上騒ぎを引き起こしたり、歯に絹を着せない露骨な物言いによって政治の場がめちゃくちゃに引っ掻き回されるといったことが、今日、世界中の至るところで起こりつつある。この意味では、現代の世界とは「偽なるものの力能」が最新のテクノロジーの力を借りて、そこかしこで猛威を振るっている世界であると言えるのかもしれない。真実に対して「価値なし」との宣告が下されかねないとは、考えれば考えるほどに、頭が痛くなってくる時代ではある。おそらくは、人間を本当の意味で自由にするものは真理以外にはありえないことを心にとめつつ、この時代の彼方をはるかに望み見るような思考と行動だけが、意味のある何ごとかをなしとげることができるに違いない……。
おわりに
ドゥボールによって著された『スペクタクルの社会』は、今から五十年以上も前に書かれたとは思えないほどに、私たちの時代が抱えている病の内実をぴたりと言い当てています。真実と、そうでないものとの境界が限りなく曖昧なものとなりつつある今の時代にこそ、深呼吸して読み直してみるべき一冊であると言えるかもしれません。