「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な著者らによって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を本紙にて全文公開する。(4/8回)
怪談「ジーマー」
作家・小原猛は、沖縄に語り継がれる怪談や民話、伝承の蒐集家である。渉猟はもちろん、実際にフィールドワークを行っている。ありうべからざる経験の声に傾聴し、その声を再演する作家と言えよう (17)。
小原は近著『琉球奇譚 キリキザワイの怪』で「ジーマー」という怪談を紹介している。戦後、那覇の波上宮のある若狭に戻ってきた、宮城という男性から小原が聞いた話だ。宮城は、何もかもが焼け落ちた若狭に戻ってきた。しかし、波上宮の鳥居だけは残っていた。彼は、その鳥居の下で過去を偲んで過ごすことが多かった。
ある日、宮城は「ジーマー」と名乗る老婆に会う。彼女は、ユタではなくウガミサー(拝み人)であり、石にマブイグミ(魂込め)をして、人々の弔いをしていた。ある夜、宮城はジーマーに「神様の用事の手伝い」を頼まれる。内容は、彼女の三線にあわせて民謡を歌うこと、そして事は起きた。
知っている歌はぼんやりと口ずさみ、知らない歌は適当に手拍子を取った。そうこうしているうちに、三線の音色に誘われたのだろう。宮城さんの背後に、ぼちぼちと人が集まり始めた。
しばらくすると、後ろからうめき声が聞こえるほど、その数は増えていた。砂浜を遠くからおしゃべりしながらやってくる人もいた。すると英語らしき声も聞こえてきた。こんなに夜遅くいるアメリカー(アメリカ人)は、きっと乱暴するような奴らかもしれない。その当時、米兵の乱暴狼藉にほとほと困り果てていたので、おそるおそる宮城さんは、後ろを振り返ってみた。
すると、そこには誰もいなかった。
波上宮の下の海岸は、がらんとして、月明りに照らされた砂浜しか存在しなかった。
だが人の気配と、うめき声と、足音だけが聞こえている。
うめき声は生々しく、まるでそこで人がうめいているくらい鮮明なのだが、そこには誰もいないのである。(中略)
やがて夜も更けて、東の空がうすぼんやりと明るくなってきた。と、背後にいた人の気配も、一人、また一人と薄くなっていくのが分かった。日が半分くらい昇ると、人の気配はすっかり消えていた。
ジーマーが「今日はもう終わりにしようね」と言ったので、すぐさま宮城さんは立ち上がり、今まで人の気配のしていた砂浜に向かった。
そこには誰もいなかったはずなのだが、無数の足跡が残されていた。裸足のもの、軍靴と思われる大きなもの、子供のような小さなものなど、いろいろだった。
この波上宮は、琉球八社の一つであり、沖縄総鎮守の社である。また柳田國男が『海上の道』で言及した場所でもある 。しかし、小原によれば宮城もジーマーも、波上宮をそのようには受け取っていない。近代社格制度とは別のかたちで、神社の歴史的由来や祭神とは別の意味で波上宮を受容している。小原は、宮城の心情を記す。
戦争は町や希望を破壊したが、海と太陽は破壊できなかった。そして波上宮の鳥居も。
鳥居に手を回して抱きしめると、涙が溢れた。
みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?
ここには、生存者の罪悪感以上のものが記されているように思える。それは生者が持つ「死者との交換可能性」という、怪談の本質である。
怪談が「ありうべからざるものを経験する人間生活の不思議」として機能するためには、死者のあり得た未来、失った可能性への愛着と哀切が語り綴られなくてはならない。生者と死者の想像力が同時に起動するところに、怪談の物語性が構築される。つまり、波上宮は生者と死者をつなぐ物語の依り代であり、「主体」である宮城と「弱い主体」である死者たちがともに立ち上がる場でもある。
本来、プロテスタンティズム的な歴史記述がそうであるように、近代はその本質ゆえに怪談から煙りたつ声を包摂することができない。なぜなら、怪談は「あり得た可能性」という存在しないものを語っているからだ。ゆえに歴史を生きない。歴史上に存在しないものは「ありうべからざるもの」なのだ。
近代社会は、唯一無二の、出生登録と死亡証明に規定される力動的人格を前提にする。しかし、怪談「ジーマー」は、死者の声なき声が近代社会に漂い、まとわりついていることを示す。このように、怪談はある場所にまつわる声として人々の間に残響する。これが怪談の形式である。
蛮勇を奮って言おう。ぼくは、この「怪談の形式」こそが、柳田がみた世界民俗学の先にあるもの、太平洋弧における現地語の思想的可能性、または日本語でキリスト教を問うことの意味だと考える。神の指の隙間に満ちる人類の恐れや哀切、ありうべからざるものを包摂するもの、死者と生者の交換可能性を語る、いまのキリスト教の外側にある「別なる普遍性」――それは場所を必要とするのだ。
※次回更新は6月10日(木)朝6時
17) 小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』(竹書房文庫、2017)203~210頁。怪談「ジーマー」には「焼け残った鳥居の話」という続きがある。委細は差し控えるが、本稿の問題意識と結論に通底するので、ぜひ購読してほしい。
波勢邦生
はせ・くにお 1979年岡山生・キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター
※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37