イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(マルコによる福音書10章51節)
盲人のパルティマイは主イエスに向って、「わたしを憐(あわ)れんでください」と叫んだ。周りの人々は彼を黙らせようとしたが、彼は叫び続けた。主は彼をみ許(もと)に招き、冒頭の対話がされた。パルティマイの切実な願いに答えて、主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)と言った。目を開けてもらったパルティマイがまず見たのは、慈しみ深い主だった。主が見えるようになる、これが肉体の癒(いや)しを超える癒しである。主イエスが「何をしてほしいのか」と聞いたのは、彼の願いを知らなかったのではなく、彼との対話を求めたのである。主と対話することによって、主を知り、神を知る、これが救いである。
パルティマイは主イエスに従ってエルサレムに行った。目を開けてもらった彼がエルサレムで見たのは、十字架にかけられた主だった。彼はそこに主の愛の苦しみを見た。それから、復活し、昇天した主を見た。その後、パルティマイは初代教会の一員として、天の主を仰ぎ見つつ、残された生涯を全うした。「何をして欲しいか」と問われる主イエスに、私たちは何と言うべきか。ヤコブとヨハネのようにではなく(10・36〜37)、パルティマイのように、自分の窮乏(きゅうぼう)を知って主に祈るべきである。私たちに切実な祈りがないとするなら、それは満ち足りているのではなく、窮乏に気づかないからである。神を愛し、隣人を愛する私たちの愛は貧しくないか。教会の宣教を担い、主を証しする私の信仰は貧しくないか。主イエスを仰ぎ見る私の目は貧しくないか。自分の貧しさに気づかないことが、神への切実な祈りを失わせている。「主よ、見える目を私に与えてください」と祈ろう。