それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。(マルコによる福音書7章29節)
汚れた霊につかれた幼い娘を持つ異邦人の女が、主イエスのもとに来て、ひれ伏し、娘から悪霊を追い出してほしいと願った。「汚れた霊につかれた」とは、人間の子には負えない状態である。重い病気を患って苦しんでいる娘に、なす術が無いのである。
主イエスはこの母親に言った。「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬(異邦人)にやってはいけない」。この拒絶と思える言葉に憤慨して当然なのに、彼女は言った。「主よ、そうです。ただ、食卓の下の小犬も子供のパン屑(くず)はいただきます」。彼女は主イエスとのやり取りを通して、主の言葉を謙虚に受け入れた。それが自分には不当でも、神は真実な方であると信じた。だから、彼女は失望しないで、なお自分の願いを訴え続けることができた。神は真実であると信じる者は、望みを失わないで神に祈り続ける。
主イエスは女の言葉を聞いて喜び、今日の聖句を語った。まさに、拒絶と思えた主の言葉は彼女の信仰を試み、確かめ、導くためであった。自分の願いが聞かれさえすれば、相手はどの神でもよいというのは、信仰ではない。彼女は主との対話によって、ご利益信仰ではなく、神を神とする信仰に導かれたのである。彼女が家に帰ると、幼い娘は悪霊から解放されていた。苦悩を背負っていた彼女は、主イエスに出会って救われたのである。主イエスによって神は真実な方であると知り、へりくだって祈る者は、神が祈りに応えてくださる時、それを当然のこととしてではなく、神の恵みであると知って感謝し、神を礼拝する人生を始めるであろう。