南台湾の最大都市・高雄は昨年「市制100周年」を迎えた。日本統治時代の1920年に名称を「打狗」から「高雄」に改めてから、ちょうど100年というわけである。新型コロナウイルスの影響で祝賀行事が制限を受けたものの、市政府は宣伝に余念がなかった。
この高雄にある壽山の麓に韓国人教会(長老派)があり、高雄およびその近郊に在住する韓国人信徒が毎週日曜日に礼拝を行っていることはあまり知られていない。台湾には170人近い韓国人宣教師がおり、近年、中国を追放された宣教師家族が台湾に流れ込んできているため、その数は激増している。そのほとんどの者が地元の台湾人に宣教している中で、純粋に在台韓国人を対象に韓国語で礼拝を行っている教会は高雄韓国教会を含め、四つだけである。
四つの教会は基隆、台北、台中、高雄にあり、高雄の教会は基隆に次いで2番目に古い。これらの教会は2015年に設立した台中韓国教会を除き、元々は戦後台湾に残った韓国人(一般に台湾では韓僑と呼ばれる)のために築かれたものである。
戦後、韓国は植民地統治から解放され、独立した。終戦時、台湾にはおよそ2千人近い朝鮮半島からの民間人が在住していたが、その多くが帰国を希望した。しかし、連合国側は日本人の引揚げを優先し、韓国人は後回しにされた。韓国側の受け入れ態勢が整っていなかったこともその理由に挙げられるが、帰還船は1946年4月に1600人ほどの韓国人を乗せて出港した後、再び現れることはなかった。結果、一部帰国を望まなかった者を含む400人近い韓国人が台湾に留まった。そのほとんどが基隆、のちに高雄で漁業に携わった。中には「密貿易」に関与し、生計を立てた者もいる。
いずれにせよ、台湾での滞在が許されたものの、韓僑の生活は決して楽ではなかった。祖国も南北に分断され、ついには内戦と解放後も政局は安定せず、新政府は海外の同胞救援どころではなかった。そうした中で、韓僑は協会を立ち上げお互いの生活を助け合い、また1949年11月には児童の民族教育のために自力で学校を建てた。教会もほぼ時を同じくして始まっている。
台湾における韓国人教会は、国共内戦で中国から台湾に逃げてきた鄭盛元という女性宣教師によって開拓された。鄭は平壌の出身で、戦時中奉天の教会で伝道していたが、戦後、上海に移り、共産党の追手を逃れ、2人の娘と共に台湾に渡ってきた。一説では、夫と2人の息子とは上海で生き別れとなったとか。鄭は基隆の韓国人家族を訪ねまわり、伝道して家庭集会を始めた。これが台湾の韓国教会の始まりである。
その後、鄭は高雄、台北で伝道し、教会を建て、のちに「台湾韓国教会の母」と呼ばれるようになる。その熱心な伝道ぶりは韓国の新聞でも紹介された。当時のことを知る年配者の間では「教会おばさん」の愛称で慕われている。鄭は1970年初頭にアメリカに移り、1993年に他界している。
1950年代後半になると、韓国の政局も落ち着き、本国から宣教師が派遣されるようになり、基隆と台北の教会を司った。唯一、高雄の教会だけが在台韓僑の朴性泰を牧師として迎えた。この朴は1933年に朝鮮半島南部の巨文島で生まれ、家族と共に1942年に基隆にやってきた。戦後、一家は帰国を希望し、帰還船を待っていたが、1947年3月、228事件で父親を亡くし、帰国を断念した。性泰は父に代わり14歳で漁船員となり家族を支えた。
そんな中、鄭に見出されて、台湾の神学校を出たのちに、1967年8月に高雄韓国人教会の初代牧師に就任した。しかし、台湾で育ち、台南神学校卒の朴は原住民や労働者への伝道に力を入れ、それを不服に感じた本国の支援団体から援助を止められてしまう。しまいには財政困難に陥り、1981年に失意の中アメリカに移住した。
それから40年。今では当時のことを知る生え抜きの信徒が五指にも満たなくなった。大半の者は近年、韓国から移住してきた新参者と派遣員や学生である。彼らが何の躊躇もなく「ウリナラ」(我らの国)という言葉を発するたびに、私は国家に振り回されてきたこれらの韓僑のことに思いを馳せらずにはいられない。
天江喜久
あまえ・よしひさ 台湾・高雄在住、2児の父。台南・長栄大学(長老派)台湾研究所副教授。2007年、ハワイ大学で政治学の博士号を取得したのち台湾に渡り、以後、主に台湾近現代史の研究をしている。妻が高雄韓国教会で宣教師として奉仕しており、自身も教会の執事を務める。