【毎月1日連載】牧会あれこれ (30) 君と僕は同じだ 

私の所属する教会では、ほぼ50年にわたって重度身体障がい者と関わってきた。今はコロナ問題があり、中断しているが、これまでは毎月一回障がい者施設に赴き、教会の青年たちと洗礼を受けている入所者と一緒に礼拝をすることを常としてきた。また毎月一回の施設での礼拝に加えて、毎年夏には軽井沢でディアコニア・キャンプと称して青年たちと障がい者が共同生活をすることを恒例行事にしていた。こうした活動から、青年たちは障がい者に対する援助のあり方について多くのことを学び取ってきた。また障がい者自身から逆に教えられる機会でもあった。

ある夏の共同キャンプのこと。指導するのはドイツから派遣されてきた奉仕女(ディアコニッセ)であった。それぞれに違う障がいを抱える人たちに適切なケアを施すため、その指導は行き届いていた。たとえば、衣類の着脱、食事やトイレ介助の注意など細々とした指示がなされた。こうした経験を積むことは、障がい者に対するケアのあり方を考えさせられるよい機会となったのである。しかし、このキャンプは単にケアする側からの一方的援助に留まらなかった。むしろ援助する側が障がい者から教えられるキャンプでもあった。

キャンプでは、一日の活動が終わりその日の反省をする時間がスケジュールの中に組み込まれていたが、ある夏のこと、思いもよらぬ出来事が起こった。キャンプに参加した青年たちが、障がいを抱えた人たちを囲んで、話し合っていると、ある青年が提案をした。「僕たちのような健康に恵まれた者は、障がい者にもっと何かできることはないか、考えよう」と言い出した。すると、ひとりの障がいを抱えた青年が訥々(とつとつ)と答えた。「それは、ちがう。君と僕は同じだ。皆、神さまから愛されているから」。この言葉に参加者は一瞬打たれたかのように黙り込んだ。「君と僕は同じ」その言葉は今まで聞いたことがなかったからだ。これまで聞いてきたのは「障がい者」と「健常者」という区別だった。両者の間にはちがいがある。だから、このようなキャンプを行ってきたのではなかったか。しかし、「君と僕は同じだ」という言葉を聞いて、できる者は、できない者のために、善意に基づく行為を何かできないものかと思って参加している自分の思いが、瞬間ひっくり返ったのだった。

その日遅く「障がい者のために、もっと何かできないか」、そう提案した青年が私のところにやってきた。「僕は、いままで人をできる人とできない人に分けて考えていました。でも間違っていました。<神さまから愛されている>ということでは、誰であろうと皆同じですね。」とつくづく言う。障がい者の言葉から、彼は改めて信仰があればこそ告白できる生きた言葉を聞いたのである。こうした体験はキャンプに参加した青年たちの人生に新しい道を開いた。ある者は牧師に、ある者は医師となった。

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