主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカによる福音書2章29〜30節)
両親は幼な子イエスを抱いて神の宮に入った。そこに年老いたシメオンがやって来て、両親に抱かれた幼な子イエスを見た。彼は神の霊に導かれて、この幼な子が長い間待ち続けていた救い主であると知り、幼な子を抱いて、今日の聖句を語り、神をほめたたえた。
年老いたシメオンは、神の宮を離れず、神が約束された救いを待ち望んでいた。そうすることによって、彼は自分の死に備えようとしていた。今、彼はその救いを見たと言い、神に「あなたは、…この僕を安らかに去らせてくださいます」と感謝した。彼は死を前にして、自分を委ねるべき救い主にお会いし、死の彼方に用意されている神の国を確信し、平安を得たのである。
私たちは皆、やがて自分の死ぬべき時を迎える。そのことを知って、死に備えることは人生の大事な仕事である。日々の仕事だけに追われて、自分の死を考えないのは愚かである。自分の死を問い、問われることによって、私たちはいかに生きるかを問い、問われる。死に備えない者は、死を前にした時、恐れと諦めの中で存在の無を迎えるであろう。
「この僕を安らかに去らせてくださいます」と感謝して言えるためには、シメオンのように神の宮を離れず、神の救いを待ち望むことである。そうすれば、主イエスにお会いして、神の国に希望を置いて生きる者とされる。年老いても、病気になっても、決して奪われない希望と平安を知る。死に臨む時、与えられた人生を感謝し、安らかに去ることができる。