死は「絶望的な別れ」ではありません。【聖書からよもやま話455】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の22章です。よろしくどうぞ。

 

エレミヤ書 22章10節

死んだ者のために泣くな。
その者のために嘆くな。
去って行く者のために、大いに泣け。
彼が再び帰って、
故郷を見ることがないからだ。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

 

『どうする家康』で、石川数正は家康の下から出奔して、豊臣方に加わりました。彼は「去った者」となりました。聖書は、最後まで忠義を尽くして死んだ者よりも、こうした「去った者」のために大いに泣けと語っています。

家康さんのために最後まで戦って命を落としたり、志半ばで病に倒れて亡くなったりした人たちについては、もちろん寂しくて悲しいですが、しかし彼らはきっと故郷やゆかりの地で葬られ、弔われ、最後まで「仲間」として扱われるでしょう。しかし石川数正さんはいかがでしょう。彼は故郷で葬られることもなく、「仲間」としても扱われなくなりました。ドラマではそれなりに幸せな晩年を過ごしたように描かれていましたが、実際はどうだったのでしょう。出奔した数正さんは、少なくとも二度と故郷の三河や駿河を見ることはなかったでしょう。どちらの方が幸せでしょうか。

死とはいわば「体の別れ」、しかし去っていかれてしまうのは「心の別れ」です。「体の別れ」ももちろん悲しいですが、人間にとってより悲しむべきは「心の別れ」なんです。

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UnsplashHelena Lopesが撮影した写真

愛する人が亡くなってしまうことはもちろん悲しい。とても悲しい。この上もなく悲しいことです。でも、愛しているまま、愛されているまま、つまり心が別れないままに亡くなったのなら、それは「体の別れ」に過ぎません。死は一見、「最も絶望的な別れ」にも思えますが、実はそうではないんです。それよりも心が別れてしまう方が、ずっと「絶望的な別れ」なんです。死んでしまった人にはいずれ会えます。そしてその時には抱き合って喜び合えるでしょう。でも心が別れてしまった人には二度と会えません。一緒に喜ぶこともできません。

主イエスの贖いと復活によって、僕たちもまたいつか復活するものとされました。だからこの体が死んで消えたとしても、僕たちはまた会えます。また喜べます。また愛し合えます。主の十字架によって、このように死の絶望から、僕たちは解放されたんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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