10月28日「わたしたちはその栄光を見た」

言(ことば)は肉となって、 わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。(ヨハネによる福音書 1章14節)

「言は肉となった」とは、神の御子(みこ)が私たちと同じ体を持つ人間となられたということである。体について、パウロは「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう 一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしている」(ローマ7 ・22〜23)と言う。人を愛することや世界の平和を願いながら、人間の体は人を退け、憎むのである。主イエスはまさに第一に、罪のために神の栄光を受けられなくなっている人間の罪を贖(あがな)うために、私たちと同じ体を持つ人間とな った。「イエスは罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ2・17)。 私たちの罪をその体に引き受けて贖った主イエスによって、私たちは罪を赦(ゆる)され、神の和解と交わりを得たそして、罪の体が完全に贖われる終わりの日を待ち望みつつ、日々、主イエスの言葉に従うのである。

第二に、主イエスははかない体を持つ私たちを思いやるために、私たちと同じ体を持たれた。主イエスは病み、衰え、死ぬ、はかない体を持つ者として、この世を生きられた。地上の生涯において、その十字架の死において、主イエスは人間の体のはかなさを極限まで味わわれた 。それゆえに、私たちは主イエスが「私たちの弱さを思いやることのできないような方ではない」(へブライ5 ・2 ) と知る 。 苦難を通って栄光に入られた主を仰ぐ者には、 生、老、病、死の苦難が伴う世において、体の弱さ、はかなさを覚えることがあっても、 決して神に見捨てられた人生を送るのではない。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

この記事もおすすめ