神さまに愛されていることを分からせるために
2017年6月11日 三位一体の主日のミサ
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。ヨハネ3:16~18
今日、三位一体の主日に読まれたのはヨハネの福音書3章16~18節です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
この言葉を聞いて、神さまが独り子イエスをこの世に送ってくださったことだけを考えるかもしれませんが、それだけではありません。神さまが独り子イエスをこの世にお遣わしになり、イエスが人々に教え、苦しみを受け、死に、復活し、聖霊が注がれ、今や私たち一人ひとりと共にいてくださるいのちとなっておられるという、そのすべてが含まれていることを忘れてはならないと思います。
さて今日は、三位一体である神さまの愛、父と子と聖霊でいらっしゃる神さまの愛について語られています。私はこの箇所を読んだとき、昔読んだある本の言葉を思い出しました。『教育者へのドン・ボスコの言葉』(ドン・ボスコ社)という本です。
ドン・ボスコは19世紀に活躍された聖人で、サレジオ会という修道会を創立した方ですが、青少年の教育に生涯をささげられました。私が以前、公立小学校の教員をしていた頃に読んで、「良い本だな」と思った記憶があります。その中にこういう言葉がありました。
「あなたたちは、子どもを愛するだけでは足りません。子どもが、自分が愛されているということが分かるようにしなければなりません」
私はこの言葉に「なるほど、そうだな」とも思えたし、「どうやってそんなことができるんだろう」とも思ったし、「愛は自分で受け取っていくべきものだから、相手が分かるようにするということは、甘やかしにつながるんじゃないか」という思いもあったんです。いまだに分かったような分からないような、でも心の中に残る言葉になっています。
この1週間、ヨハネ3章16節の言葉をずっと思い巡らす中で、この本の言葉は「神さまの愛」のことを言っているんだなと合点がいきました。つまり、「人間を愛するだけでは足りなくて、人間が神さまに愛されていることを分かるようにしなければならない」……こういう神さまの愛のことを言っているのかなと合点がいきました。
今日、「父と子と聖霊の神さまが、私たちを愛するだけでなく、私たちが愛されていると分かるようにしてくださっている」ということを思い巡らしてみたいと思います。
神さまは私たち人間を愛するあまり、私たち一人ひとりの中に一緒にいてくださいます。しかも愛であるお方なので、私たちの人生を内側から乗っ取って自動運転してしまおうとはなさいません。私たちが神さまと一緒に生きるという同意をもって初めて、そのいのちを発露(はつろ)されていくようなお方です。にもかかわらず、人間はそのことに出会えなくなってしまいました。
愛されていることを私たち人間が分かるように、分からせるために、神さまはどうなさったんですか。独り子をお与えになられたのです。
イエスさまは、神さまが愛されていることを一生懸命人々に告げ知らせました。しかし、弟子たちでさえもその真実が分からず、イエスの十字架の時にはみんな逃げてしまいます。
イエスさまの宣教は失敗だったのでしょうか。いいえ。イエスは十字架に上げられ、人間の中には神のいのちがあるという真実を認めて死に、そしてその中で復活されました。私たち一人ひとりのその真実の中に復活しておられます。
さて聖霊は、何か新しいことを付け加える方ではありません。すでにいただいている真実との出会いを作り、支えてくださるお方です。つまり聖霊が、「私たちの中にすでに共にいてくださっている父」と、「その真実の中にすでに復活してくださっているキリスト」と私たちを豊かに出会わせ、支えてくださるのです。
父と子と聖霊の愛が、「神に愛されていることを私たちに分からせるようにしている」。これが、三位一体の主日にお祝いする神さまの愛の中身です。
神さまは私たちを愛されました。それゆえ、私たち一人ひとりと共におられます。そのことを私たちに分からせるために独り子イエスを送り、私たち一人ひとりの中に復活させ、そしてその出会いを聖霊の働きによって私たちの中に豊かに作っていただきます。
今日そのことに感謝をして、帰っていく先で出会う人一人ひとりに、「神さまがあなたと共におられます。そして、その中にキリストが復活しておられます。聖霊によってそのことと豊かに出会いますように」とお祈りしたいと思います。
今日、ご聖体を受ける者は、キリストの体によって励まされ、支えられて生きるいのちになりますように。三位一体の交わりに入りますように。ご一緒にお祈りしましょう。