人間の中に、神のいのちを見いだすいのちの水を飲んで
2017年3月19日 四旬節第3主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
永遠の命に至る水が湧き出る
ヨハネ4:5~42
イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました。そこに「サマリアの女が水を汲(く)みに来た」(7節)。
「正午ごろ」とありますが(6節)、強烈な日差しの日中、誰も水を汲みに来ることはありません。どうもこの女は、人のいるところに出て行きたくないようでした。しかし、そこにイエスがおられ、「水を飲ませてください」と言ったのです(7節)。
ユダヤ人とサマリア人の不仲は1000年近い昔からの因縁で、ユダヤ人はサマリア人のことを軽蔑(けいべつ)して、つきあうことがなかったのです。しかもその当時は、知らない男性が知らない女性に声をかけるということはあり得ない時代でした。
それで女の人は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、不信感を明らかに表しています(9節)。
イエスは言われました。
「もしあなたが、神の賜物(たまもの)を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(10節)
女は答えます。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです」(11~12節)
するとイエスは言いました。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(13~14節)
女は少しずつイエスに心を開いていったのでしょう。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と言いました(15節)。
ところがイエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われます(16節)。これはこの女性にとって、いちばん言われたくないことだったと思います。
イエスはこの女の人を見て、そのいちばん心の奥底に、誰にも触れられたくない、誰にも踏み入ってほしくない、澱(よどみ)みのような、硬いシコリのようなものがあることをご存じでした。
しかし、人間のいちばん奥深くを支配しておられるのは、罪ではなく、神です。イエスさまはそのことを伝えるために、女の人にそう問われたのだと思います。
そして、「あなたは、自分のいちばん奥底にあるのが、人に知られたくない醜いことだと思っているかもしれないけれど、そうではないよ。あなたのいちばん奥底にあるのは罪ではなく、父である神さまのいのちなんだよ」とお伝えになりたかったのだと思います。
そして、イエスは言われます。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(24節)
父である神は、すべての人の中に住んでおられます。その神を礼拝することは、霊と真理をもってなされなければならないと言っておられるのです。
「霊と真理」とはキリストのことです。キリストは、「霊と真理」をもって父である神さまを礼拝しておられる方です。だから、そのキリストの「霊と真理」をもって礼拝しなければならないと言われたのです。
すると女が言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」(25節)。それに対してイエスは答えます。「あなたと話をしているこの私が、それである」(26節)
そのとき、その女の人は、生きた水であるイエスを飲んだのだと思います。そして、イエスと共に父である神に向かう礼拝が始まり、そこから永遠のいのちに至る水が湧き出たのです。
それで女の人は、町に行って人々に言いました。「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29節)
考えてみてください。この人は誰にも会いたくなかったのです。そして、自分のことを誰にも知られたくなかったのです。ところが、「生きた水」であるイエスを飲んで、人間の最も奥底におられる父である神に向かう礼拝が始まったとき、会いたくなかった人々の中に行って、いちばん知られたくなかった自分の全部をカミングアウトして、「見に来てください」と言っているのです。これが今日の物語です。
イエスさまがくださる「生きた水」とは、イエスさまのいのちそのものです。そして、人の最も奥深くに父である神さまが共にいてくださるという真実を見る眼差しです。
その眼差しに結ばれるとき、永遠のいのちに至る水が湧き出ます。私たちをそのようにしてくださるのは、生きた水であるキリストです。