(前編を読む)
──本の最後に、関野さんが牧師になろうと思った経緯に触れられています。洗礼を受けたのも同じ頃でしょうか。
洗礼を受けたのは小学校5年生の時です。家族で教会に通っており、僕もカトリック系の幼稚園に行っていたこともあって、神様やイエス・キリストについては自然と受け入れていました。
牧師を目指したのは大学3年生の頃です。5歳下の妹が生まれつきダウン症で、心臓病を患っていたのですが、ある日突然、急性の糖尿病に倒れ、あれよあれよという間に集中治療室に運ばれ、管だらけになり、ドクターから「あと3日も持ちません」と言われ……。
小さい頃から、そういう日が遠からず来るとは聞かされていましたが、いざ本当にその日が来て、「家族の死」に直面したとき、僕は腰から砕けるように床に座り込むしかなかった。怖くて、悲しくて、声を出して泣きました。
そんな時に、家族ぐるみで仲良くしていた牧師さんに電話をかけたんです。いま思えば、助けてほしかったのでしょうね。神戸にいる方だったので、「その場所からでいいので祈っていてください」と言ったら、その日の午後、神戸から駆けつけてくれたんです。そして、集中治療室にいる妹のそばで膝(ひざ)をついて祈り、「大丈夫だから」と言って帰っていかれました。
そうしたら、本当に「大丈夫」になったんです。妹はその後、無事に回復し、今日も元気で生きています。「彼が祈ってくれたから生還した」とは決して思ってはいないんですが、そのことを通して、「人生でいちばんつらくて苦しい時に一緒にいてくれる存在が絶対に必要だ」、「同じように苦しむ人に寄り添いたい」と思い、牧師の道を目指すようになったんです。
それまではロッカーになるつもりでバンド活動に熱を入れていました。また、キリスト教推薦で進学したにもかかわらず、大学のキリスト教活動もほとんどやっていなかったのに……。そう考えると、不思議ですよね。
また、教会内にもいろんな問題があって、教会に不信感をいだいていた時期でもあったんですが、文句を言っていても何も変わらない。だったら、自分が行きたくなる教会を作ろうと思い、悪戦苦闘しながら今日に至ります。
ちなみに、神学校に入ってからその牧師に、「あのとき、僕に『大丈夫』と言ってくれたことがきっかけで牧師になろうと思いました」と伝えたら、「え、そんなこと言ったっけ?」と。彼にとって、あの日のことは決して特別なことではなく、いつものことのように自然体で愛から出た行動にすぎないんですね。究極の牧師だなと思います。
──病院の牧師という夢は、その経験から?
はい、僕は病院で「牧師になろう」と思ったので、死に直面した人や病に苦しんでいる人にキリストを届けることがライフワークだと思っているんです。
現在の日本では、たとえばガンになって病院に行っても、ドクターと面談できるのはわずか数分といわれています。看護師さんたちも忙しく、胸に抱えた不安を誰にも相談できないという方が多くいらっしゃるんですね。
この分野では米国は30年進んでいるといわれています。帰国後は神学校で病院実習を教えていきたいと思っていますが、最終的には、国や宗教を超えてキリストを伝えられる牧師になれたらと思っています。
──写真集『ROCKERS OF THE HOLY LAND』(キリスト新聞社)も出されました。
それも、そうした活動の一環です。写真家の緒方秀美(おがた・ひでみ)さんから「あなたをテーマにイスラエルで撮りたい」とオファーがあり、仕事としてではなく、自腹でイスラエルへ行きました。派手に活動をすることで批判的なことを言われたりすることもありますが、牧師がイスラエルに行って聖地の写真を収め、聖地のメッセージを伝えることは絶対に意味があるという確信がありました。
──牧師として生きる中で大切にしていることは?
徹底的に人であり、徹底的に自分であり続けることでしょうか。それはよく言われる「ありのまま」ということではなく、徹底的にグレーでダークな自分のままでいるということです。
人間は、きれいごとだけでは生きられません。「イエス様はあなたを愛している」というのは、もちろんそうなんですが、それを感じられないから、みんな苦しんでいる。そういうことをちゃんと言葉にすることを意識しています。
日本では本や写真集を出したり、ライブを行ったりと、いろいろな活動をしてきましたが、米国に行ったら僕は何もできないし、何も分からない。本当に何者でもなくなります。そういう状況に身を置き、それでも挑戦することが大切だと思うし、何よりそうしたいんです。他人がもがき、あがいている姿を見ると、人の心は揺さぶられます。米国にいる間は、そうしてあがいている自分の姿も含めて、動画などからメッセージを届けたいと思っています。