牧会あれこれ(13)賀来周一

信頼関係を作る

人と向き合って仕事をする人、学校の教師、医師、心理職、福祉職、また聖職者などは、常に専門職としての知識や技術に加えて、その人自身の人柄や生き方が問われる。教師について言えば、生徒は、何を教えるかは当然のこととして、教えるのは誰かに関心を持つ。医師について言えば、医学の知識や治療に期待を寄せるのは当然のことで、それ以上に治療してくれる人は誰であるかに心が向く。他者の援助に尽くす心理職、福祉職もそうである。聖職者が説教をする際にも、聴衆は説教そのものよりも、説教者はどんな人かが関心の的になるのである。

いずれにせよ、人を相手にする専門職に対しては、知識や手腕そのものよりも、その人の生き方に相手は関心を持つ。そこに求められているのは信頼関係である。それは何も限られた専門職だけではなくて、どのような仕事であっても、人が介在する場合には、きわめて重要な要素となる。

私が神学教育に携わっていた頃、聖職者への道を歩む神学生にこう話してきた。「おそらく皆さんは、会衆が耳を傾けて聞いてくれる説教作りに大きな関心を持っているに違いない。それが大切であることは事実だ。しかし、会衆との間に信頼関係がなければ、どんなに立派な説教をしても、人々は耳を傾けない。信徒との間にどうすれば信頼関係を作ることができるかを考えてください」

ある一人の牧師がいた。毎年、母の日が来ると必ず、「アウグスチヌスの母モニカは……」という言いだしで説教が始まるのであった。けれども、誰も「また同じ話だ」と言う者はいなかった。むしろ、毎年の説教が「アウグスチヌスの母モニカは……」の第一声で始まることを誰もが楽しみにした。この牧師はよく信徒を訪問し、信徒一人一人にきめの細かい配慮をしてきた。その結果、いつの間にか牧師と会衆の間に深い信頼関係が出来上がったのだった。

カウンセリングを学んでいると、「まず最初にすることは、相談に来た人と信頼関係を作ることです」と教えられることが多い。来談者とカウンセラーの間に信頼関係がないと、カウンセリングは好ましい方向に進まないからである。信頼関係を作るためには、安心感を作らなければならない。人は安心すればこそ、こころの内をさらけ出すことができる。カウンセリングで来談者は、「いちばん肝心なことは最後に言う」といわれる。場合によっては、相談が終わって部屋を出たところで大事なことを話す。「それをもっと早く言ってくれれば」と思うことも稀(まれ)ではない。それは、相談室では緊張して話せないが、部屋の外では緊張感が解けて安心するからである。

相手が安心感を持つためには、カウンセラー自身がありのままの自分で相手と接する必要がある。

ある時、カウンセリングを習い始めたばかりの大学生がいた。カウンセリング実習で行われるロールプレイの時、たまたま来談者の役割を取った相手が中年の男性であった。この学生は相手と向き合うと、こう言ったのだった。「私はいま心臓がドキドキしています。良いカウンセリングができるかどうか、不安です。こんな私でよければ、お話を聞かせてください」。これを聞いた相手は、その正直さにこころを打たれ、自分がいま抱え込んでいる深刻な問題を話し出したのだった。そして、「相手がありのままの自分でいると、『この人なら何を話してもよい』という安心した気持ちになります」と感想を述べた。そこに生じている関係は、もはや相談に来た人と相談を受ける人の関係ではない。ありのままの相互関係が生まれている。それこそが信頼関係への入り口となる。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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