「この家に平和があるように」と言いなさい
2016年7月3日 年間第14主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
この家に平和があるように
ルカ10:1~9
今日の福音の中で、主は弟子たちを派遣されます。それにあたって、イエスさまは今日の福音の中でいろいろなことを命じておられるように聞こえます。
しかし、中心的な命令はただ一つです。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(ルカ10:5)
聖書の原文では、「この家に平和」という言い切りになっています。「平和があったらいいね」とか「ありますように」ではなく、「この家に平和があります」という宣言のかたちになっています。イエスさまの言われる「平和」とは、神さまがもうすでに私たちと一緒にいてくださるという神の真実です。
「この家に平和があるように」というと、私たちはこの家の「家内安全」、「無病息災」、「商売繁盛」(笑)を祈るようなイメージがあるかもしれません。もちろんそれは悪いことではありません。でも、それをはるかに超えて「永遠なる神さまが一人ひとりと共にいてくださるのですよ」という宣言。これが、イエスさまが私たちに告げるようにと命じられた命令の中心です。
そして、もし人に「神さまがあなたと共におられます」と言うなら、それは私と共におられるその方、一緒の向きで生きてくださるキリストのわざです。もちろん、私が声を出して言うのですけれども、そのことをおっしゃるのは、私の内に共におられるキリストのみわざなのです。
今日の福音の中に、イエスさまのお言葉で、「『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」(5~6節)というものがありました。これはどういう意味でしょうか。
遣わされた者が「平和」、すなわち「神さまがあなたと共におられます」と告げて、「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」とは、この方を通して「神さまがあなたと共におられる」と告げたキリストご自身がこの人にとどまり、とどまったならば、今度はその人がキリストと一緒の向きで、人に「神さまがあなたと共におられます」と祈り、神のわざを行う者になります。もちろん、それをなさるのは、その人にとどまるキリストです。
今日のミサの出来事を思い出してみましょう。福音を読む前に「主はみなさんと共に」と私は申し上げました。私が申し上げたのですが、私の内でそのように言われたのはキリストです。
キリストが「主はみなさんと共に」と言い、みなさんは「また司祭と共に」とお答えになりました。そのことを言われたのは、みなさんお一人ひとりの内にいてくださるキリストです。共にいてくださるキリストが、「また司祭と共に」と言ってくださいました。私は今ここから、キリストが大勢おられるので、びっくりしております(笑)。ああ何でこんな大切なことをもっと今までちゃんと理解しなかったのだろうと思っております。
「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる」
とどまったら、今度はその人の中で一緒の向きでキリストは生きてくださいますので、今度は人に、「神さまがあなたと共におられます」と祈るようになります。
この後、ミサでは何回も「主はみなさんと共に」とお祈りをします。その時、私の中にそのお方がいらして、平和を告げておられます。それは間違いのない「キリストの真実」です。そして、みなさんが「また司祭と共に」と言う時、みなさんの中でその祈りを祈っておられる方はキリストです。
また、ミサのもう少し後のほうで「平和の挨拶(あいさつ)をかわしましょう」というところがあります。「主の平和」というのは、まさに「この家に平和があります」という祈りであり、「この人の内に平和があります」という祈りです。
みなさんがこの後、「主の平和」とおっしゃる時、その平和を祈るのは、皆さんの中にいて、みなさんと一緒の向きでいてくださるキリストがそのわざをなさっておられるのです。
今日も、「共にいてくださるキリスト」と共に、人に「平和」を告げますように。「平和」を告げられただけでは足りないので、告げられた「平和」というお方と一緒に人に「平和」を告げることこそ、キリストが私たちにとどまるということになります。ですから、一緒に「平和」を告げて歩む1日になりますように、1週間になりますように。
ミサにあずかることができない方もたくさんおありでしょう。おそらく、みなさんのお一人おひとりの心の中に、ミサにあずかることができないでいる方が5人も10人もいらっしゃるでしょう。その方のことも一緒に思いながら、この感謝の祭儀をささげ、ミサにあずかることができない一人ひとりに「平和」を祈りましょう。ご一緒にお祈りをしたいと思います。