イエスさまと共に食べる「新しい食べ物」
2016年4月10日 復活節第三主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
子たちよ、何か食べるものがあるか
ヨハネ21:1~19
今日は「ティベリアス湖畔」(ヨハネ21:1)、つまりガリラヤ湖畔での出来事です。ここでイエスが5000人の人にパンを食べさせました。だから、弟子たちにとってティベリアス湖畔は、食べることに関わる思い出の場所でした。
ところで、シモン・ペトロが「私は漁に行く」(3節)と言いましたが、この「行く」という言葉はギリシア語では「ヒュパゴー」という単語が使われています。「引き返す」「帰る」「退く」「去る」という意味です。これまでイエス・キリストに従ってきたけれど、イエスが亡くなった今、「俺はまた漁に戻るよ」という意味合いかもしれません。
ほかの弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って、漁に行きました。けれども、その夜は何もとれなかったのです。何の収穫も、実りもなかったのです。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)
するとイエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」とお尋ねになります(5節)。彼らは「ありません」と答えました。この時、イエスさまは、「復活である私が一緒にいるのに、いのちの中心が空っぽになってしまっているから、食べ物を与えたい」と思われたのかもしれません。
「食べ物」とは、ただの食べ物ではなく、イエス・キリストの復活のいのちを弟子たちの中に立ち上がらせたかったのだと思います。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)という神の言葉に聞き従ったとき、不思議な大漁という出来事が起こりました。私たちにも、そんなに深い思いだったのではないけれど、神さまの言葉に従ったとき、びっくりするような結果があって、「ああ、神さま。主よ」と出会わせていただくようなこともあるのではないでしょうか。
その時、主の愛しておられた弟子が「主だ」と言いました。ペトロは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります(7節)。一刻も早くイエスさまのところに行きたかったのでしょう。
「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」(9節)。そしてイエスさまは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われたのです(12節)。この食事はきっとミサのイメージだと思います。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)
「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」(12節)
今日も司祭が「キリストのおんからだ」と言ってご聖体を渡す時、イエスさまが「これは私のからだ、食べなさい」と言ってパンをお配りになるのです。皆さんはだれも「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしません。それを与えておられるのが主であることを知っているから。
このパンを食べる時、イエスご自身が私たち一人ひとりの中に立ち上がります。そして、一緒の向きで生きるいのちになってくださいます。
私たちも大勢の人の中にあって、何の関わりもない時、かえって自分がすごく寂しく、空虚で、自分には何もなく、不安で、ひとりぼっちに思えてしまうことがあるかもしれません。そんな時、「私が共にいて、あなたの中に立ちたい。あなたのいのちの根幹を満たしたい。決して滅びることのないいのちであなたのいのちの根本をいっぱいにしたい」と望まれるのがイエスさまです。
今日のミサのパンを通して、イエスさまが私たち一人ひとりのいのちの根幹を満たしてくださるのです。ですから、私たちもそのお方の中に立って、一緒の向きで生きる者とならなければなりません。
イエスのからだを食べて、イエスと一緒に生きるようになると、今度は、「新しい食べ物」が生じます。そのことをイエスさまは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃっています(4:32)。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。これがイエスの食べ物だと言われるのです。
イエスを遣わした「父である神のみ心」とは、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(6:40)。それが私の食べ物だとイエスさまは言われるのです。
つまり、子を見て信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得るように働くこと。それは、「あなたの中に神のいのちがある。そのいのちに満たされて生きてほしい」と、出会う人に対して祈ることだと思います。それが、イエスを食べた者の食べる「新しい食べ物」です。