宗教の研究者に求められるリテラシーとして姉崎正治の「宗教病理学」を前回紹介した。姉崎の先見の明を、今日のカルト問題との関わりでもう少し述べておきたい。
姉崎はこの学問の根本方針を以下のように述べている(以下、姉崎の著書からの引用は読みやすさを配慮して一部現代語に改変)。
「宗教病理学は宗教の中に起こる病的現象を研究するが、しかしこれは正信と迷信とを区別して病的現象というのではない」。宗教の教理の「是非得失」(正統か異端か)によって病態を判断してはならない。
さらに「いわゆる迷信なるものは仮に真に迷信であったとしても、心理的機能の過程を研究する者としては(中略)それを病態なりと断ずる権利はない」。
今日では「カルト問題」イコール「異端問題」でないことは自明とされている。カルト問題は第一義的には人権侵害の問題であるのに対し、異端問題は教義の正統性についての神学的問題だからだ。
しかし、日本において1970年代に統一協会の問題性が問われた時、当初、キリスト教会はこれを異端問題として対応した。この問題に積極的に関わった当時の代表的な指導者たち、和賀真也(『統一協会――その行動と理論』1978年)、森山諭(『統一教会からまことのメシヤへ』1986年)、浅見定雄(『統一協会=原理運動、その見極めかたと対策』1987年)、川崎経子(『統一協会の素顔』1990年)らの著述の中心は、統一協会の教義が正統派のキリスト教とはいかにかけ離れたもの(異端)であるかの指摘であった。当然のことながら「カルト」という言葉はまったく使われていない。
90年代半ば以降、教義的には異端ではないキリスト教系団体(ボストン運動やヨハン教会)の問題が浮上し、教義上正統か異端かという問題とは一線を画したカルト対策の必要が自覚されるようになる。前述の浅見定雄がこの視点から『なぜカルト宗教は生まれるのか』を執筆したのはオウム真理教(当時)による地下鉄サリン事件の2年後、1997年になってからである。
このような日本におけるカルト対応の歴史を振り返ってみると、20世紀初頭にすでに姉崎正治が教義上の異端問題とは一線を画す原則を掲げて、宗教の病態を研究対象とする「宗教病理学」を説いていたことの先見性は注目に値する。
姉崎が指摘する宗教の病態に「信念の排斥性」がある。「健康なる精神にあってはこの自信あると共に他の信念を了解してその中に真理と承認すべきものあればこれを認めることに躊躇」することはない。しかし、この傾向が高じると「少しにても自己の信念と異なりと思う者は全然これを排斥疎外して仇敵であると考え(中略)これを排斥し去らんとする」。これなどは今日カルトの特徴とされる「排他性」すなわち、自分たちのみを「光」、外の世界を「闇」と峻別するカルト的二元論に通じる主張である。
さらに姉崎は、こうした病的宗教が自分の信念に固執するあまり自ら経典を「偽造仮託」するに至るとしこれを「古典偽造」として特徴づけるが、これは統一協会の『原理講論』、エホバの証人の「新世界訳」聖書、摂理の「30講論」などに通じる。
その他にも排他的に「自己の信仰を他に布教する濫溺状態」「目的は手段に妨げなしとして、布教のためには悪行と知りつつ悪を行」う「濫溺布教」、さらに「神の光栄のためには敵を服し人を殺さんとする」「濫溺崇敬」の指摘、これらは騙してでも献金をさせる統一協会の「霊感商法」、殺人も場合によっては「救済」になるとするオウム真理教の教義に通じる主張である。
信者、指導者(聖職者)、研究者として宗教に積極的に関わるものにとって宗教多元主義と宗教病理学とは車の両輪のように欠くことのできないリテラシーである。
(おわり)
川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。