Q.洗礼を受けるための準備として、どのような学びが必要ですか? 信仰さえあれば学びは不要ですか?(20代・男性)
パウロは、信仰は聞くことによって始まる、と言っています。
キリスト、もしくはキリスト教との関わりはいろいろなかたちで始まります。人との出会い、出来事との出会い。本を読んだり、映画を観たり。また、祈りの中で……。
人は本性的に神とのつながりを求めるものでしょう。人間は、神によって形づくられ、その鼻に「命の息を吹き入れられ、人はこうして生きる者となった」と創世記に記されています。人は神によって命が与えられ、しかも神に似せて造られた存在ですから、本質的に神に向かう存在なのです。時代や文化、部族によって数えきれないほどの宗教があるのももっともなことです。人々は歴史の中で、おそらくその存在の最初から「神」を信じて生きているのでしょう。
キリスト教では、イエスが人類の救い主であり、イエスによって真の神の姿が明らかにされたと信じています。つまり、イエスこそ、神が人類に約束されたキリストであると信じるのです。
そのことは聖書と聖なる伝承によって今に至るまで伝えられてきました。洗礼を受ける、つまりキリスト者、キリスト信者となるためには、当然、イエスとは何者か、聖書と聖伝は何を伝えているのかを知らなければ、信じることはできないでしょう。したがって、洗礼を受けるためには――というより、キリストを信じる――厳密には、復活して今も生きておられるイエス・キリストを信じることができるようになれば、洗礼を受けるということになるでしょう。
とりたてて「勉強」しなければ信者になれない、というより、今、ともに生きておられるイエスを「主」と宣言できるようになれば洗礼を受ける、ということではないでしょうか。自分の人生を通して「学ぶ」ことが一番でしょうし、やはり、しっかりと「み言葉」を読み、聞かなければ「独りよがりの、間違った信仰」になるのかもしれません。
やまもと・まこと 1953年福岡県生まれ。80年、カトリック司祭となる。81~85年、ローマ在住(教会法研究)。福岡教区事務局長、福岡カトリック神学院院長などを経て、カトリック西新教会主任司祭、