慎みと恥じらいを持て
これは、小生のような無学な老人牧師には無関係故のひがみ根性からの危惧であることを、まず告白しなければならない。齢をとって老人になってくると、若い時には考えられないほどひがみっぽくなっているのに気づく。たぶん、もともとひがみっぽいのが現れてきたのだろう。
それはともかく、もう何年も前から日本のキリスト教界も学位偏重になってきた。かつては、米国や韓国とは違って日本の教界は学位にあまり関心を持たず、奉仕の道が開かれていた。
しかし、海外宣教が進展する中で、学位がなければ宣教地での奉仕の道が開かれないことに直面した。そのような具体的必要から、学位に目が向けられたこと自体は問題ではない。また、研究の召しと賜物に恵まれた人が学んだ結果として学位が与えられることは喜ばしいことである。
問題は学位を得ることが目的になったり、学位取得によって自己を誇ったり学位を持たぬ人を蔑むことである。
大江健三郎さんと小沢征爾さんは、数年前、同時にハーヴァード大学から名誉博士号を授与されたそうである。最近までそのことを小生は知らなかった。小生が世に疎いからかもしれないが、それよりも彼らがそのことを賑々しく扱わなかったからだと思う。
ところが、我ら老牧師の中にはどこかから名誉博士号を授与されると、記念パーティーをする人もある。もう少し慎み、恥じらいを身につけた老人でありたいものである。
蛇足だが、叙勲を喜び、パーティーをする教界関係者もいるらしい。叙勲制度の目的を考えると断固、断ってほしいところだが(これもひがみだろう)それができない場合でも、主のみを王と仰ぎ、天での報いに望みをおいて生きる者としては、少しの後ろめたさと恥じらいくらいは持っていたい。
牧師の世襲は「導き」か?
時々、息子や親族が後任牧師になるのを耳にする。お寺ではあるまい、と言いたい。
もちろん、子どもが伝道者になることは主の導きにより、喜ばしいことである。しかし、主の教会で父子が牧師を継承することは本当に主の導きだろうか。そこには、人間的情や思惑が働いていながら、主の導きとか召しとかいう美しい言葉で粉飾し、正当化していないか。
また、「息子や親族以外では後任牧師は務まらない」という状況もあるだろう。しかし、その教会が真に「主の教会」かを問われるべきである。息子以外に牧師は務まらないという教会は、もはや「主の教会」ではない。だから、我々老牧師はどんなことがあっても、後任が息子や親族でなければ立ちいかないような教会形成をしてはならないことを覚えていたい。
「私の教会・私の信徒」
我々老牧師は平気で「私の教会・私の信徒」と口にし、思ってもいる。特に長年犠牲を払って教会を建て上げた場合に強く持つ。また、多くの人が導かれ世に知られた教会、牧師はその誘惑がある。
しかし、言うまでもないが聖書には主イエス以外に教会を「私の教会」と言った例はない。それは偶然ではなく、神の霊感によるもので、人間はどんなことがあっても教会を「私の教会」と言ってはならないことを表している。
だから我々には便宜的であれ、何であれ「私の教会」と言ってはならないのである。我々が「私の教会」と言うなら、聖書記者を導かれた聖霊を悲しませるだろう。そして聖霊を悲しませて教会が「主の教会」として主の栄光を現すことは不可能である。我々がどんなに長年、犠牲を払ったとしても、教会は主の教会であることを一時たりとも忘れることなく、言葉においても注意したい。
また、この「私の教会、私の信徒」意識は結局、教会の「公同性」があいまいになり、「公私の区別」がなくなるのである。教会の私物化ほど、教会にそぐわないものはない。だから、我々齢をとればとるほど、教会の私化に心を見張っていなければならない。
(つづく)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。