橋をかける 古川和男 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

聖書には「橋」という言葉は一度も使われていません。でも、橋は聖書の時代にもあり、人間の生活に切り離せないもの。伝道も同じくで、福音派はキリストの福音を「神と人間との橋渡し」に図式化し、カトリック教会は「教皇」の語源を「橋作り」として紹介してきました。そう、橋は大事。そして、橋はすごい。それを日本一実感できるのは、四国です。

「瀬戸大橋記念公園」に行った時、間近に見た瀬戸大橋も圧巻で、記念館の展示のストーリー性は衝撃でした。本四架橋がいかに悲願だったのか。橋がなかったころの事故や限界。起きうる暴風・波浪・災害も予測して安全な橋を造るため、何が必要で、海底や地質をどう調査し、独自な技術・重機を開発したか。どれだけ膨大な時間・経済・作業員が投入されたか。

「そうか~、橋は丈夫な材料で作った板を、どーーんって置いときゃいい(笑)わけじゃないんだ。両岸を知り尽くし、あらゆる問題を想定して、作られるんだ」という(あまりに今さらな)現実認識。この記念館を出た時、ぼくは「橋マニア」になっていたのです。

吊り橋、斜張橋、トラス橋、ラーメン橋……。橋のウンチクはさておき、橋を知ると、福音もググーンとリアルになったのです。キリストも、ぼくらと同じ人間となってくださった。人の心の形、もろさ・強さ、特徴を熟知した、深い人間理解をもって橋となったのです。また、橋であるキリストは、今後この関係に、どんな問題・波風・災害があり得ても安全なよう、万全の神の知恵・技術が惜しまず投入されていると思ってよい。そして、橋を架ける技術や背景も大事だけど、何より大事なのは、橋を渡って始まる出会いのドラマだ、ということ! 知識としての神学は大事だけれど、生ける神学の目的は、神との和解、神の民の出会いとドラマの旅! そんなあれこれを思い描いてしまいます。

種々の特徴を持つ、本四架橋の3ルートさえ人間に作らせた神は、僕らの人生にも橋を渡してくださる。神と私、信徒と未信者、一世の親と二世の子、分裂した教会、争う民族、自分とだれか……。乱暴な欠陥工事や「木に竹を接ぐ」ような暴力でなく、時間をかけ、丁寧に、惜しまない知恵と愛を注いで、オーダーメイドの橋台を作ってくださっている。

昨年6月、本連載に書いた「コレカラの信徒への手紙」3本が、思わぬ反響や励ましになりました(父がたくさんの知人にコピーしてた、と知り冷や汗……笑)。息子の死や、離婚・再婚の体験も、多くの方との橋渡しにつながっています。牧師を休職したことで出会った本を訳し、広い世代の方たちが読んでくれています。そう、神がぼくたちのうちに始めていることは、誰かとの間に橋をかけるための橋脚作りなのです。

「苦しみと絶望の谷は、いつか希望の門にかわる――もしそこに橋があるのならば」(「ヘブライの予言者ホセアのことば」『テラビシアにかける橋』訳者あとがきより。おそらくホセア書2章17節の敷衍)

古川和男
こがわ・かずお 1968年秋田県生まれ。北九州と新潟で育ち、東京基督教短期大学修了。伊達福音教会(北海道)、東吾野キリスト教会(埼玉)、パース日本語教会(オーストラリア、短期)、鳴門キリスト教会(徳島)牧師を経て、日本長老教会池戸キリスト教会(香川)牧師。趣味は、ジョギング、ジャム作り、橋ウォッチング。訳書に『ロスト・イン・ザ・ミドル』(地引網出版)。

【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 家庭集会をしています 古川和男 2024年1月11日

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