Q.聖書の中には逆説的な表現が多く、読みにくい部分があります。もっとわかりやすく書けなかったのでしょうか?(20代・女性)
神の救いの計画は、人間の知恵を超えています。神は人間をはるかに超える存在なので、人間の頭に収まりきれないことは、容易に想像できます。それは神秘と言われます。
わかりやすさを求める誘惑は、いつの時代も存在しました。人間の理性で理解できないことは無意味であるという考えは、今でも盛んです。いわゆる合理主義です。もし神が人間の理解に納まってしまうなら、人間は神を超えることになります。
聖書は人を超える神のことばです。だから難しいに決まっています。聖書が難しく感じられる本当の理由は、その表現にあるのではなく、神の救いの計画自体が、人の知恵を超えており、逆説的だからではないでしょうか。苦しみが、神と出会う喜びの場になる。希望のないところに希望を見出せる(ローマの信徒への手紙4章13章)、死ぬことによっていのちを得るというのです。
なぜか。それは、すべてを治める全能の神が、永遠の生命そのものの神が、死ぬべき体をもつ人間となり、奴隷の姿でぼろくずのように処刑されるまで人を愛する道を選んだのです。
その主が、死を乗り越えて愛を貫き、絶望の象徴である墓から生まれました。自分をさえ救えない無力なイエスの十字架の死は、神の愛の強さの表現であり、殺された神のみことばが、今も生きて、人を生かし続けます。神にとって、私を愛し私を救う道は、これしかなかった。神の愛は、逆説の中でしか実現されないのです。
真理は逆説に満ちています。だから世の知恵者、自分の知恵に頼る人には隠され、弱い者に受け入れられるのだと思います。
自分がわかる限りにおいて、神さまを信じましょうと言うのではありません。人は、自分を超える存在者を認め、その方に自分を委ね切るよう招かれています。信仰は、頭で納得できる項目を増やしていく作業ではありません。自分のばかさ加減を知り、ありのままの愚かな自分を神に委ねていく道、これが信仰ではないでしょうか。
*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。
ひらばやし・ふゆき 1951年フランス、パリ生まれ。イエズス会司祭。上智大学大学院神学研究科博士前期課程、教皇庁立グレゴリアーナ大学大学院教義神学専攻博士後期課程修了。教皇庁諸宗教対話評議会東アジア担当、(宗)カトリック中央協議会秘書室広報部長、 研究企画部長などを経て、日本カトリック司教協議会列聖推進委員会秘書、上智大学神学部非常勤講師。