中庭の小さな生態系 門田 純 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

ある日、教会の小さな中庭にモンキチョウが飛んでいた。形や大きさはモンシロチョウだが、爽やかな黄色をしている。住宅街の一角にある教会に、子育てに最適な環境を見つけたようだ。妻が植えたミモザの木に卵を産みつけて、気がつけばミモザの葉っぱをもしゃもしゃ食べて、次々と新しく生まれた黄色い羽を羽ばたかせている。最近ではカタツムリや赤とんぼやオニヤンマ……教会の中庭には来客が途絶えない。

まだ新会堂の建築が始まる前のこと。週に一度、英語を母国語とするクリスチャンたちが集まって自主的にスモールグループが開かれていた。彼らは母国語で聖書について分かち合い、ともに祈る機会を求めていたのである。そこである時、「教会建築にとって重要なコンセプトは?」という話題が出た。いろんな話がなされたと思うが、1人のニュージーランド人の男性がひと言、「命だ(Life)」と答えた。確かに、いくら立派な教会の建物が建てられたとしても、それが無機的であったら何の意味があるだろうか。いくら教会が宣教しているいのちの福音が素晴らしいものであっても、実際に教会が有機的な命にあふれていなければ空虚な綺麗事にすぎないのだと気付かされた。

それから数年して会堂が新しくなったが、今では1人だった牧師も結婚し、2匹の犬がいて、2匹の猫がいる。それぞれ、保健所からやってきたり、高速道路のサービスエリアで拾ったり、道路でひかれかけていたところを心ある人に保護されたり、いろんな事情で教会にやってくることになったのだが、今や普段生活している人間の数より多い。近隣の方々や宅急便のお兄さんたちにも可愛がってもらい、子どもたちにもみくちゃにされながら、教会にやってくる人を迎えている。花壇や中庭に植えられた無数の植物は虫たちを招き、虫たちを狙って鳥たちがやってくる。教会の中庭にも小さな生態系が誕生しているようだ。期せずして「Life」が教会にあふれている神の業に驚いている。

もしかしたら牧会とはガーデニングのようなものかもしれない。植物たちのために、土を整え、水を欠かさず、伸び過ぎればせんていをし、季節や気候に応じて手をいれる。弱っていれば支えをしてやり、雑草を取り除ける。害虫に食われて枯れそうなものがあれば、ハーブオイルを吹きかける。土壌がよければ植物たちは生き生きと育ち、次々に虫たちがやってくる。教会も中庭と似ている。乾き切った人間関係や表面的な付き合いに覆われた教会に、人がやってくるわけがない。絶えず互いに気がけて、心を開いて祈り合い、その時々に必要な助けをする。人間が2人以上いれば、すれ違いもあれば、意見の衝突もあるのは当然だ。真剣であればこそ、問題の起きない教会などあり得ない。だが、そこから関係が冷え込んでいくのか、むしろ信頼を深めていくのかは、手入れの仕方にかかっている。

新会堂を設計したのは、これまで教会の建築に携わったことがない設計士だった。彼はクリスチャンではなかったが、教会に集う人たちがどのように教会で過ごすのか、また地域にどう開かれていけるのかを牧師と信徒と一緒になって考え、たくさんの業者を説得し予算を1円も無駄にせず、文字通り身を粉にして貢献してくれた。でき上がった教会を見て、よく「モダンでおしゃれな教会ですね」と言われるが、新会堂での初めての礼拝で彼があいさつしたひと言が忘れられない。「私は単なるおしゃれな教会として完成させたつもりはありません。みなさんの信仰が息づいて、地域に開かれていく時に、これから教会が完成していくのだと思います」

 かどた・じゅん 1983年神奈川県生まれ。上智大学経済学部卒業、社会福祉法人カリヨン子どもセンター勤務を経て日本ナザレン神学校へ。現在、日本ナザレン教団 長崎教会牧師(7年目)。趣味は愛犬とお散歩、夫婦と犬2匹猫2匹で全国を旅するのが夢。

【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 「自分たちの必要」ではなく 門田 純 2023年2月21日

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