日本ムスリム協会の学習会に定例参加するようになり、日本人ムスリムたちと交流を深めていったある日、協会の理事から「キリスト教徒の立場から見たイスラム教」という題での講演を依頼された。聴衆はみなイスラム教徒だったが、学習会や礼拝にも参加を重ね、親しみを感じていた人が大部分だったので、喜んで承諾した。
聖書とコーランの内容の比較から入るのが分かりやすいだろうと思い、片手に新共同訳の旧・新約聖書、もう片手に日本人ムスリム協会訳のコーランを持ちながら、両者の内容には共通点が多くある。旧約聖書ではアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデについての物語、新約聖書ではイエスのさまざまな奇跡物語や隣人愛の教えなど、主要な点で一致していると最初に語った。
しかし、アブラハムがエジプト人女性のハガルに産ませたイシマエルについての理解と、イエスの神性についての理解では大きな違いがある。創世記ではアブラハムによるイサク奉献が、コーランではイシマエル奉献になっていること、新約聖書では「イエス・キリストは神の子」だが、コーランでは「預言者の一人」であることなど。
聴衆は30人ほどだったが、半ばくらいまではうなずきながら聞いてくれていた。ところがある時点で急に雰囲気が固くなるのを感じ、何かまずいことを言ってしまっただろうかと焦ったが、心当たりのないままとにかく与えられた時間を語り終えた。
質疑応答の後、司会を務めた協会の理事から言われたことが今も忘れられない。「川島さんはムスリムではないので無意識にされたことと思うが、講演中に聖書とコーランを示された後に、コーランの上に聖書を置いた。神聖なコーランの上には決して物を置いてはならないと私たちは考えているので、この点は今後、ご注意ください」
あぁ、これだったのだ。講演の途中で雰囲気が急に固くなった理由は。確かに私は両手で聖書とコーランを示した後、両書を横にしてコーランを下に、その上に聖書を置いて話していたのだった。聖書を下にしてその上にコーランを置けばよかったのだが、後悔先に立たずだ。
この出来事を機に、同じ一神教でもキリスト教とイスラム教では正典に対する理解、とりわけそれがどのような意味で「神の言葉」であるかについてはまったく考えが違うことを再認識した。
イスラム教ではコーランはアラビア語において一字一句そのままアラー(神)の言葉である。これについてはこんなエピソードも聞いた。日本のある雑貨店でアラビア語コーランの言葉が記されているタペストリーを、足ふきのように使っていたのに心を痛めたムスリムが「言い値で買い取るから、そのタペストリーを譲ってほしい」と交渉したが「これは売り物ではない」という理由で聞いてもらえなかったという。
キリスト教でもこれと近い逐語霊感説という解釈をする教派もあるが、多くの場合、聖書はすべて「人間の言葉である」が、聖霊が働く時「神の言葉になる」と考える。したがって、「人間の言葉」としての聖書は歴史的批判的な学問研究の対象になると同時に、礼拝において聖霊の働きによって「神の言葉」として聞かれるのだ。
東京神学大学に入学した時、当時の学長であった竹森満佐一先生が言われた言葉が今も心に残っている。「聖書を拝読すると言われることがあるが、君たちは聖書を拝んではならない。ボロボロになるまで読みつぶしなさい」と。
このような正典理解の相違についての知識もすべての人が持つべき重要な宗教リテラシーだろう。(つづく)
川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。