19歳の時に洗礼を受けた。水に浸かった瞬間、僕は思った。
「これからマザー・テレサみたいな善い人になれるんだ」
クリスチャンではない僕の母親は、教会に行くことを反対していた。そんな彼女に対し、洗礼後の僕がひと言目に放ったのは「うるせぇババア!」だった。
それから数年後、神学校へ行く時も母は反対していた。その時に放った言葉は「黙っとけ!」だった。
心の中ではざわつきがあった。
「クリスチャンなのに、牧師になるはずなのに、なんて酷い生き方なんだ」
ずっと抱えている思いだ。講壇から「愛」や「平和」を語りながら、見えないところでは人に悪態をついたり、平気で陰口を叩く。そんな自分が理想のクリスチャン像とはまったく正反対で、今でもほぼ毎日絶望している。
少なくともクリスチャンには、それぞれ理想の信仰生活や信仰者像があると思う。「誰かのために生きる人生」「傷や病の癒された日常」。しかし、それらは自分の行いや思いによって一瞬で打ち砕かれる。そして、そんな時に僕たちは何よりも聖書を読む気力が失せる。何を言われてものれんに腕押し、むしろ「私の人生を良くしてくれよ!」と怒りすら湧いてくる。
牧師とは、その営みからとにかく聖書を読み込む。僕も学生時代に「とにかく読め!」と指導され、ある授業では1カ月半の間に旧約聖書をすべて通読して、そのレポートを書けと言われ、倒れるかと思った(実際、民数記あたりで一度倒れた)。しかし、僕はある出来事を通して聖書を「読む」とは何かを思い知らされた。
学生時代、ボンヘッファーの『共に生きる生活』の読書会をしていた。ただし、メンバー全員が面倒臭くなり3回で終わったというのはここだけの話。その貴重な3回の中で、ある言葉と出会った。
聖書の各巻を連続して読むことによって聖書から何かを聞こうとする者は、みな神に導かれて、神が人間の救いのために一度限り、決定的に働いた場所へおもむく。
この時、僕は「結局、聖書読めってことか……。ダルいなぁ」と思っていた。すると、読書会のメンバーの1人がふとこうつぶやいた。
「聖書を読んで神の望む場所へ歩いていくって言われると、確かに俺たち、自分の理想と神の理想を綺麗に勘違いしてる気がするな」
分かるようで分からないコメント。だけど、テキストを読み進めていくとなんとなくそのことがつかめてきた。
われわれは、自分自身の実存から引き出されて、地上における神の聖なる歴史の中に移し入れられるのである。
イエスを信じる。その瞬間、人は自分の物語から神の物語へ移行するというのだ。もう少し読み進めてみよう。ボンヘッファーは続けてこう言っている。
神がわれわれの今日の生活の証人となり、参与者となるのではなく、われわれが、聖なる歴史における神の行為に対し、あるいは地上におけるキリストの歴史に対して、注意深い聞き手となり、また参与者となることが大切なのである。
神を信じると、その瞬間から何もしなくても神自身が生活の身支度をしてくれ、困った時に助けてくれる。僕たちはどこか頭の片隅、いやど真ん中にそんな思いがある。しかし、ボンヘッファーは言うのだ。「あなたこそが神の歴史! 物語! 営みに参加するのだ!」と。だからもしあなたが神を信じるなら、神を自分の理想で覆うのではなく、神の現実を直視する勇気を持つ必要がある。だから、ボンヘッファーは語る。
われわれの生活の中で、神がわれわれを助けてくれるということ、あるいは神が実際にそこにいるということが証明されるというのではなく、イエス・キリストの生涯の中で、われわれのために神がいるということ、そしてまた神が助けてくれるということが証明されるのである。神が、今日私に対して何をしようとしているかを探求することよりも、実際に神がイスラエルに対し、み子イエス・キリストに対して何をしたかを知ることのほうがわれわれにとって重要なことである。
人にはそれぞれのライフストーリーがある。酸いも、甘いも、苦いも、辛いも……。そして、神はそれを見ている。しかし、神はそれらの穴埋めをしない。なぜなら、その人のライフストーリーごと神はご自身のストーリーに移し替えるからである。だから、最後にボンヘッファーはこう言う。
われわれの救いは、「われわれ自身の外」にある。私の生涯の歴史の中にではなく、ただイエス・キリストの歴史の中に、私は自分の救いを見いだすのである。
神の証明やその働きはどこで知るのだろうか。もしそれが〝われわれの中〟における発見や理解に頼られるならば、それは僕たちの理性が生み出した偶像に過ぎないのかもしれない。しかし、聖書に記されたイエス・キリストの中に、神が実際にお働きになったその〝聖なる歴史の中〟にこそ見出されるべきなのだ。その揺れ動かない事実に目を向ける時、改めて神が今日も僕たちと共に生きている事実を知り、何をされようと計画しているのかワクワクするのだと思う。
ちょっとひと息、深呼吸。僕たちは僕たち自身に目を向け過ぎているのかもしれない。だけど溺れている人が自分の髪の毛を引っ張っても体が浮き上がらないのと同様、僕たちもその眼差しを内側から外側に向ける必要があるのだと思う。
思いつめる毎日、変わらない自分の性格、生きていて嫌になる時は腐るほどある。しかしそんな時、ふと聖書の物語に心を留めたい。イエスの歴史に眼差しを向けたい。そこにこそ一筋の救いの光があるのだと思う。
*太字筆者
参照:D・ボンヘッファー、森野善右衛門訳『共に生きる生活』(新教出版社、2018年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。
【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(7)推しとともに、推しの前で、推し無しで生きる 福島慎太郎 2023年7月15日