2018年に刊行された『聖書 聖書協会共同訳』の認知向上、地域の識者、読者との交流を通じ、聖書事業への意見・提言を聞くことを目的とした「聖書協会共同訳セミナー」が7月15日、日本基督教団高知教会(高知県高知市)で開かれ、約30人が参加した。
講師として登壇した旧約の翻訳に携わった飯謙氏(神戸女学院大学名誉教授・院長)は、キリスト教世界における聖書翻訳(タルグム、ウルガダ訳など)の歴史から説き起こし、ルターが日常語であるドイツ語に1523年から翻訳し、45年に亡くなるまで改訂したが、その時の翻訳方針は原語と訳語を対応させるもの、つまり直訳であったと説明。翻訳には大きく「直訳」と「意訳」とがあるが、どちらを採るというより、そのせめぎ合いの中で聖書が使われる場面にふさわしい語を選ぶ必要があると強調した。20世紀半ばからの聖書翻訳においては、「意訳」と「直訳+脚注」という二方向に伸びるベクトルの中で、用途に応じて適切な位置を選ぶ方針が採られることが多く、協会共同訳は脚注を付記していく方針だという。
日本では1954年、口語訳聖書が刊行され、形式的翻訳の完成版ということができたが、問題点も指摘された。新共同訳(1987年)は、当時の流れをくんで意訳の方向でスタート。直訳では文化的差異に対応できないため、同質性・等価性を重視するべきだとするユージン・ナイダの理論が採用された。しかし、等価性が翻訳者の裁量に委ねられすぎていたことで中途半端な訳になるという限界があった。協会共同訳では、そうした箇所を元に戻したたりもしたが、回りくどい訳になってしまった箇所もある。
飯氏は、具体例を挙げながら協会共同訳における改訳のポイントを解説。例えば、新共同訳で「神に逆らう者」と訳された詩篇1章の「ラーシャ」(「悪人」を意味する)は、翻訳者が「逆らう」という意味を加えた。信仰するかどうかはその人の決定によるのに、「信仰持つ人でなければ、逆らう人なのか?」と抵抗感を覚える人もいると考え、協会共同訳では「悪しき者」と改めた。
人間に関しては、「はしため」が使われなくなった。神が「お前」と言わないようにしようという意見も、委員の中で早い段階から出ていたという。
苦心したのは、出エジプト記3章14節の、神が自らの名を語る箇所。新共同訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳されているが、非常に謎めいた表現になっている。「わたしはある」は、ヘブライ語で「エヘイェ」。英語のbe動詞にあたる動詞の現在形だが、ヘブライ語にはbe動詞がない。聖書の他の用例みると、「私はあなたとともにいる」という時にこの語が使われている。つまり、「ある」ではなく、「いる」ということになる。この箇所は、神の存在論に関わる問題であるため慎重に検討された。新しい釈義では、神が我々とともにいることが強調されていると捉え、「私はいる、という者である」と訳出された。この訳語は協会共同訳の特徴となっている。
講演では他にも、『ここが変わった!聖書協会共同訳 旧約編』(日本キリスト教団出版局)に収録されたような特徴的な変更箇所について詳しい説明がなされた。
参加者からは、「『人間の努力によらず、神の一方的な愛によって救われる』ことを強調した翻訳であるという話に勇気づけられた」「聖書を訳することの難しさ、そのために多くの方々が真実に近づけるように努力されていることのたいへんさを知ることができた」などの感想が寄せられた。