日本で8月は、戦争を覚える季節でもある。2度の原爆投下、8月14日のポツダム宣言の受け入れ、8月15日に降伏決定を日本国民に放送、翌16日に日本軍に停戦命令、そして9月2日に降伏文書の調印が行われ、正式に戦争が終わった。
この戦争での日本の軍所属の死者は230万人と言われている。そのうち6割が餓死や病死であった。食料をおろそかとしたまま戦争に踏み切ったため、前線地域で略奪も行われることとなった。戦場に住む人々は、日本軍によって飢えと病に苦しむ結果となった。戦争とは構造的な問題によって、一人ひとりの個人をも狂わす悪の問題があることが分かる。
私たちは飢えに敏感でなければならない。2000年前のイエスは生きていくのに困難な人々とともにおられた。だからこそ「主の祈り」の「私たちの」「日毎の糧をお与えください」という祈りは重要である。
聖書において「食べる」という言葉は実に意味深い。イエスご自身が命のパンであり、我が肉を食らい、我が血を飲め、という言葉を私たちはよく耳にする(ヨハネによる福音書6:53~59)。日本語としては「食う」よりも「食べる」の方が、人間に用いるには適した言葉のようにも思えるかもしれない。聖書自体にはどう書いてあるか。原文を読み比べると、同じ「食べる」という単語でも、箇所によって違う単語が用いられている。
ヨハネ福音書6章53節以下の最初の「食べる」という言葉は、「むさぼる、大食い、大食漢」という単語が用いられている。イエスが「大酒飲みで大食らい」と言われたところと同じ言葉である。そして2文目以降は「かみ砕く、食う」という単語が用いられている。この単語は、人間に対してではなく、獣が主語の時に用いられるものである。
これは非常に興味深い。というのは、獣が「食う」というのは、生きていくために「食う」ためだからである。一方で人間が人間的に「食べる」というのは、命の維持のためだけではない。美味しいものや、その土地の食材、料理方法、すなわち歴史であったり、誰かとの交わりであったり、そういった文化的な意味合いを含んでいるからだ。
つまり聖書が用いる「食べる」という言葉には、大きく分けて二つの意味がある。イエスが大食らいで大酒飲みであった、というのは、誰とでも食卓を共にされる方であった、つまり「交わり」こそ人間にとって大切なものであることが示されている。
もう一つが「食う」ということである。「交わり」も当然大切であるが、同時に「食う」ことをやめてしまったら、体は栄養が取れず衰弱し、結果、死に至る。そのため私たちは毎日なにかしら「食う」わけだ。
果たして毎日、私たちは神ご自身を「まことの食い物」としているだろうか。自身の飢えにも気づかずに、実は心の栄養失調になっているのではないか。それを紛らわすために、自分を押しつけ、誰かを心の飢えに追いやっていないだろうか。心だけでなく、体においても飢えに追いやってしまっている。そういった社会構造の中に、私たちは生きている。
「主の祈り」の後半部分、「糧」「罪」に続く「悪からお救いください」という言葉が魂に響く。ゆえに教会は、イエスが行った聖餐式を大切にしてきたのだ。さまざまなことに思い巡らすこの夏において、「私たちの」「まことの食い物」を祈り求めていきたい。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。