SNSなどでの「映え」を意識した写真を寺社で撮るという風潮は、近年かなり定着している。観光ついでに撮影された寺院の建物や庭、花などの写真がツイッターやインスタグラムに投稿されているのはよく見られる光景である。またコロナ禍のアマビエブームや説法・祈祷場面でのオンラインの活用などを通じて、流れは加速していると言える。
そのような風潮の中で、境内での撮影を禁止または一部規制する寺社も存在する。鎌倉にある臨済宗寺院、東慶寺もその一つで、2022年6月7日から境内での撮影を全面禁止とした。同寺のHP参照のもと撮影禁止の理由をまとめるとおおよそ以下の三つとなる。
①本堂にお参りをしない、②庭園や寺院に侵入し環境を破壊する、③撮影に気を取られて「心」で感じるのを忘れてしまう。
②に関しては実害があった事項であり、①、③に関しては宗教施設としての寺院という立場が全面に出ている。実害がでていることはもちろん、宗教施設としての寺院という視座が観光客に欠落していたことが禁止に大きく関わっている。
では宗教施設を写真に撮り、SNSに上げるというのはどのような行為といえるだろうか。宗教学者の大道晴香氏は宗教施設や境内を風景として切り取り、新しい意味付けを与える行為であると述べる。例えば、青森県の霊場・恐山は「パワースポット」や「心霊スポット」という新しい意味がメディアによって付与され、非日常を感じさせる聖地として「映える写真」を撮るのに最適な場所になったという。
東慶寺の事例に照らし合わせれば、同寺や他の鎌倉の寺院はネット上では四季の花、特に紫陽花のフォトスポットとして知られていた。また、インスタグラムでは、東慶寺の伽藍や仏像を背景に撮られた花の写真も多い。SNSに写真をあげる一連の行為は宗教的文脈を切り離し、メディアが醸成した文脈を付与する作業とも言えるだろう。
また、東慶寺の撮影禁止の理由の「撮影に気を取られて『心』で感じるのを忘れてしまう」という文言も示唆的である。大道氏は、恐山の中でも本尊を安置する本堂や地蔵堂など参詣者や寺院側が強く聖性を感じる場所は撮影されず、「見えない」状態となり、聖地の神秘性や宗教的な価値を増幅させているという。この指摘は、「見える」状態、そして撮影という行為が聖地の聖性を減衰させるとも解釈できる。東慶寺の試みは境内地を撮影の対象ではなく、聖性を感じる場所として位置づけるものであると言えるだろう。
だが、近年は宗教施設がSNSで境内の写真などを発信することも増えてきた。仏教でいえば「寺スタグラム」などがその好例であり、寺院でのイベントや境内の草花の様子などが投稿されている。また、各教団が2010年代後半からSNS活用についての講演会や研修会を行ってきたことも発信を促進していると言える。また、過疎地域の僧侶がSNSを活用し、寺院の運営に活路を見出す事例も報じられている。SNSは宗教施設への親しみや興味を育むきっかけ、まさしく宗教側と観光客のメディアとして機能しており、宗教活動や寺院運営に密接な関係を築きつつある。
以上を踏まえて、宗教側はSNSといかに向き合っていけば良いだろうか? 宗教側の文脈を観光客が、観光客側の価値観を宗教側が尊重する関係は可能だろうか? 大道氏の指摘した「見えない」部分を戦略的に開放したり、秘匿するのも一つの手法であろう。観光客と関わる媒介としてSNSと向き合うことが不可欠な昨今において、改めてその功罪について考える必要性がある。
東島宗孝(宗教情報リサーチセンター研究員)
ひがしじま・しゅうこう 1993年神奈川県生まれ。慶應義塾大学院社会学研究科博士課程在籍中。論文に「『伝統』としての禅の解釈と軋轢―臨済宗円覚寺における泊りがけの坐禅会の事例から」(『人間と社会の探求』)がある。