イエス・キリストを信じる中東のキリスト教徒がどのように信仰を証しし、社会的平和を保ちつつ、共生するのがベストなのかについて、神学的な助言を「クリスチャニティ・トゥデイ」が掲載した。
中東のリビアとレバノンには、それぞれトリポリという名の都市がある。これらの都市は、フェニキア人の遺産とアラビア語の方言を除けば、共有できるものはほとんどない。中でも特に対照的なのは、宗教の自由に関する実態だ。
リビアは今月初め、イスラム教から改宗した6人のキリスト教徒に死刑を宣告した。他方レバノンは、政治に宗派主義が根付いているにもかかわらず、宗教間の自由な移動が認められている。リビアのトリポリは、北アフリカの海岸へのアメリカの介入に敬意を表し、米海兵隊の公式賛美歌で祝福されたのに対し、レバノンのトリポリは、東地中海にフォーカスしたアメリカの宣教師運動の前哨地であり、ジェンダーに配慮した教育によって社会を変革した。
かつてイタリアはリビアを、フランスはレバノンを植民地化した。その他、中東には、イギリスの影響、オスマントルコの伝統、ペトロダラー(オイルマネー)経済、民主主義構造、多文化王国、独裁共和国、そしてその間にあるすべてのものが存在する。
これらの国々すべてを結びつけているのは、イスラム教の圧倒的優勢だ。
しかし、ムハンマド(イスラム教預言者、創始者)の信奉者の間にも違いがある。ある国は世俗的であり、ある国はシャリーア(イスラム教の経典コーランとムハンマドの預言に基づくイスラム教の法典)を強制する。ある国はキリスト教の少数派を保護し、ある国は彼らを差別する。一概に概要を説明することは難しいし、現地のキリスト教徒が学んだ教訓を一律に示すこともできない。
しかし、「クリスチャニティ・トゥデイ」はこの地域に深く根を下ろしている4人のアラブ人キリスト教指導者に、ある試みを依頼した。2人は現在外国に住んでおり、2人は出身国に住んでいる。しかし、それぞれが、イスラム社会でキリスト教徒としてどのように生きるのがベストなのか、その戦略のスペクトル(多様性のある連続体)の一角を表している。
神学者マーティン・アッカドによって作られたこのスペクトルの一つの明確な表現は、一般的なクリスチャンの反応を次の五つのカテゴリーに分類している:シンクレティスティック(信仰の融合)、実存的(多様性の対話)、ケリグマティック(使徒の説教)、アポロジェティック(福音の擁護)、パレミカル(イスラムの問いかけ)。
以下に紹介する指導者たちは、そう書いた記事のように自身を分類するよう求められたわけではなく、またこのランドスケープ記事も彼らにレッテルを貼ることを目的としているわけでもない。しかし、それぞれが次のような質問をされた。
抑圧された状況であれ、受け入れられた状況であれ、イエスを信じる者はどのように信仰を証し、社会の平和を保ち、仲間のクリスチャンとの一致を保つべきか?
マーティン・アッカド氏
アッカド氏は、アラブ・バプテスト神学校およびレバノンの近東神学大学院の准教授である。アクション・リサーチ・アソシエイツを設立し、国民和解、政治的変化、レバノンの歴史に対する複数の物語によるアプローチに焦点を当てている。
キリスト教とイスラム教の関係に携わってきたこの20年間、私は普遍主義や弁証法神学の誘惑を避ける「ケリグマティック」な対話の姿勢を提唱してきた。初期の使徒たちの説教に倣い、ミッショ・デイ(神の使命)に沿った喜びのある宣教に重点を置いている。
ケリグマティックのアプローチは、「超宗教的でキリスト中心」だ。
福音を証し、すべての人をキリストを通して神との関係に誘うとき、私たちはイスラム教や他の宗教を犠牲にしてまでキリスト教を推進することはない。イエスは、安息日、律法、神殿といったユダヤ教の宗教的シンボルに対して批判的な立場をとっていた。イエスはユダヤ教のラビ、教師、指導者として認められていても、彼が口にした厳しい言葉は、ユダヤ教の仲間に向けられたもので、その宗教団体が汚れた者、追放された者、罪人とみなす者には決して向けられなかった。
このような預言者的な行為と態度は、私たちの宗教を含むすべての宗教に対する私たちの姿勢の手本となるべきものだ。宗教は、貧しい人々に奉仕し、私たちの社会における正義を推進する限りにおいてのみ有用である。宗教が単なる自己不朽化の手段となったとき、それは神のものでなくなる。私たちは、この地上を共に旅するすべての人とともに、どの宗教に改宗するでもなく、イエスの弟子となり、イエスのようになる道を歩むよう求められているのだ。
ケリグマのアプローチは、「尊敬することと愛すること」だ。
私たちが他者を尊重することは、神の似姿に創造された女性と男性というように、共通の人間性に根ざしている。そして、神が私たちすべてを創造し、愛しておられるからこそ、私たちはすべてを愛する。イスラム教徒に対して、私たちはイスラム教を、歴史的、地理的に常に変化しながら、めまぐるしい数の形態と多様な現れ方をするダイナミックな世界観と認識している。
これは、キリスト教や他の宗教の現実と同じである。
私たちは、イスラム教徒の隣人に対して、その同胞の憎むべき行為に責任を負わせることはしないし、過激派を、彼らが属すると主張する宗派の代弁者と見なすこともしない。私たちの隣人(イスラム教徒)は、その宗教的所属にかかわらず、すべての人と平和に暮らし、社会の共通善のために協力することを目指す私たちの潜在的パートナーなのだ。
ケリグマのアプローチは、「預言的で科学的に誠実」だ。
私たちはイエスの弟子であり、師と一致する理解と行動を身につけることを目指し、この旅に他の人も誘う。しかし、私たちは、現在も過去も、自国民であれ他の社会宗教団体であれ、宗教家によって犯された恐怖に目をつぶることはない。私たちは、そのような行為に対して預言者的に批判的姿勢をとり、あらゆるイデオロギーの宗教的・非宗教的基盤を批判的に検証する。
かつて、福音派はしばしば宗教間対話を拒否することで知られていた。西洋の偉大な宣教運動の時代には、伝道と改宗の優先順位を堅く守るように教えられてきた。しかし、世界は劇的に変化し、戦争、移住、ソーシャルネットワークの進化が新しい現実を作り出した。私たちは今、前例のないほど多宗教、多文化的な親密性の中で、しばしば分裂や紛争が起こりやすい共同体の中で暮らしている。
福音に忠実で、人間の調和を目指し、共に生き、働く方法を再考することは、イエスの弟子である私たちの義務だ。ケリグマティック・アプローチは、このような新たな懸念に対処するためのものだ。
ナジブ・アワド氏
アワド氏はシリア系アメリカ人の体系神学者であり、宗教間思想史家でもある。現在、ドイツのボン大学准研究員。以前はコネチカット州のハートフォード神学校でイスラム研究およびキリスト教とイスラム教の関係の博士課程を指導していた。
この問いに対する答えは、非常に文脈的(前後関係を頭に入れる必要性のあるもの)であり、すべてのキリスト教徒が機械的に使えるレシピのようなマニュアルではない。しかし、多くの人にとって「信仰を生きる」とは、パウロがローマの信徒やフィリピの信徒に示したように、公私ともに福音の価値を日常的に表現することだ。しかし、はっきり言っておくが、これは自分の信仰を、あたかも最高の宗教商品であるかのように売り込むプロモーション戦略ではない。
私がこの比喩を用いたのは、世界中の多くのクリスチャンが、イエス・キリストによる神の贖いの啓示に対する信仰をこのような言葉で表現していると考えるからだ。他の地域では機能するかもしれないが、中東ではこの「生きた信仰」のアプローチはうまくいかない。
中東では、多くのキリスト教徒が、布教を中心とした共存パターンと、対立を中心とした共存パターンをとっている。前者では、信仰の輪の中で他者を自分たちのようにする(改宗させる)ことを目指す。後者は、生存と自己防衛に専念している。彼らは、相手が「存在するパートナー」ではなく、「自分の存在を脅かす存在」であるかのように生きている。
より良いアプローチは、他の宗教的信者と相互に関係し、共生的に互いの人生を交換することである。中東の歴史は、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が、実存的に、歴史的に、文化的に、人類学的に、社会学的に、そして宗教的に、同じ生活環境に属していることを示している。
彼らは同じ運命を共有しているのである。
この共生を成功させるためには、対話に先立ち、関係性が必要である。実際、関係性は必要な前提条件として対話を支えている。対話を最終的な結果と考えることは、物事を逆戻りさせ、伝道のための実用的な道具として使うことは、対話を知的で独断的な腕相撲の場にしてしまう。
また、一般的な思い込みとは裏腹に、クリスチャンは主要なターゲットではない。
地域的なテロリズムによって、はるかに多くのイスラム教徒が死亡し、避難を余儀なくされているが、独裁政治と派閥主義が彼らすべての足手まといになっている。壮大な宗教戦争を想像するのは逆効果である。実際、イスラム教徒とキリスト教徒は、信仰に関係なく、宗教の政治的操作によって共に苦しんでいる。
イエス・キリストの使命を正しく示すには、信仰に関係なく、すべての人と聖霊の実を分かち合うことだ。そのためには、恐れるのではなく相手を愛し、懐疑的になるのではなく、平和な生活を喜ぶことが必要だ。イエスの主な働きは、新しい信仰を作ることでも、ユダヤ教から新しい、いわゆる「キリスト教」に人々を呼び込むことでもなかったことを忘れてはならないだろう。イエスは、周りの人々と同じユダヤ教の信仰体系に属しながら、生き、聖なる業を行い、死に、そして死から蘇ったのだ。
だから、中東のクリスチャンは、神の神秘的で底知れぬ啓示の業を通して、聖霊の力を持って、イエス・キリストがすでに存在し、活動しているかのように、同胞であるイスラム教徒の信仰体系を評価するよう、私は勧める。霊は、彼らの中にも、彼らの信仰の中にも、好きなところに吹いているのだ。そして、クリスチャンは、イスラム教徒と深い関わりを持ちながら、彼らがすでに神の子であるという希望を持って、彼らの主であり救い主に従うことができるのである。
ハルン・イブラヒム氏
2003年から衛星放送でイスラム圏にキリスト教番組を放送しているアル・ハヤト・ミニストリーズのディレクター。エルサレムで世俗的なアラブ系イスラム教徒の家庭に生まれ、現在はフィンランドに在住している。
イスラム社会でキリスト教徒が信仰を伝えようと思えば、現実には絶対にできる―だかイスラム教徒に近づいてはいけない。そのため、信仰深い信者たちは、まるで熱い肉の周りを回る猫のように、間接的で、隣人を怒らせるようなことは何も言わない。これは恐怖から来るもので、もし彼らが街中で「ムハンマドは預言者ではない」と言えば、一度や二度はうまくいくかもしれないが、その後、斬首されることになる。イスラム教は暴力的な宗教だ。
私は彼らを非難しない;彼らの立場になったら、私はどうするかわからない。
そのため、一部のキリスト教徒は、好意を寄せ、イスラム教徒が自分たちの信仰について質問してくれることを期待して、善行を行うことにしている。しかし、イエスは社会的なプロジェクトに着手することはなかった。彼の奇跡は、彼の語ったメッセージをサポートする役割を果たした。
質問が来たとき、クリスチャンはすでに弁明することに長けている。イスラム教徒はこの1400年間、聖書や私たちのすべてを批判してきた。自分の信仰を守ることで、正しい答えを学ぶことができる。しかし、これが私たちの全てであることはできない。
友情とメディアという文脈の中では、弁証法神学は適切であるかもしれない。キリスト教に対するイスラム教の批評家たちは、知恵を持って行うのであれば、私たちにも全く同じように答える権利を与えている。イスラム教に穴をあけることは、人々が真理を探求することを刺激する。
私は問題を起こすつもりはなく、聖霊の導きが必要である。
しかし、彼らの預言者をどう思うかと聞かれたら、まず聖書に書かれていないことを言うことができる。あなたの預言者になることはあっても、私の預言者になることはない、と。もし彼らが最初に私たちのところに来るのであれば、これは私たちが彼らをイスラム教に関してつつくより良いことだ。そして、彼らの質問に対する誠実さは、私たちの日々の行動によって刺激され得る。クリスチャンは寛大でなければならず、頻繁に訪問し、信頼を勝ち取り、実際に良い行いをしなければならない。しかし、決して信仰を水増ししてはならないのだ。
残念ながら、私たちがアル・ハヤト(キリスト教ミニストリーの中東メディア)で受ける批判の95%は、仲間のキリスト教徒から来るものだ。「あなたは私たちを傷つけている」と彼らは言う。「彼らは私たちを殺すだろう」。私は、イスラム教徒は私たちのチャンネルの前にあなたを迫害し、彼らは私たちがいなくなった後、そうする(殺す)だろうと答える。しかし、私たちの兄弟姉妹は私たちを誤解している。私たちは攻撃するのではなく、愛をもって真理を語っているのだ。たとえ現地の事情で叫んではいけないと言われても、イスラム教徒はキリストを示す信者を見なければならない。
しかし、私たちは自分たちの洗濯物も洗わなければならない(自浄もしなければならない)のだ。教会の入植は、未伝道民への到達を意図して始めたのに、正教会やカトリックへの到達に軸足を移してしまう。これらの共同体が聖書の真理を持っていないと誰が言ったのだろうか?伝統的な教会の多くは、プロテスタントよりもはるかに多くのイスラム教徒をイエスに導いてきたのだ。
ある意味、北アフリカでは、キリスト教徒が少数派として受け入れられている他の地域よりも、これらの改宗者は楽な生活を送っている。少数派の中の少数派である彼らは、安全保障や迫害に対する懸念が他者に重くのしかかっているので、公的にはそれらの懸念を抱き得ない。不思議なことに、私自身はイスラム教の背景を持つ信者として、あらゆる教会で頻繁に歓迎されていることに気づく。口には出さないが、多くのクリスチャンの感覚はこうであるように感じる: ついに、私たちは仲間の一人を得た。
バシャール・ワルダ氏
エルビルのカルデアカトリック大司教であり、イラク北部のクルディスタン地方にある同市のカトリック大学やマリアマナ病院の創設者。
メソポタミア(現在のイラク)にイスラム教が伝来して以来、何世紀にもわたって、弟子化を促す福音を公に証しする能力は、イスラム教の教えと法治の制約によって絶えず狭められてきた。現在でも、イラクの憲法はシャリーア法に明確に基づいており、イスラム教以外の宗教を認めることは、基本的に厳しい制約のある共同体の中で実践する限られた自由である。イラクや類似の国々に「宗教の自由」が存在すると言うこと―米国で理解されているようなこと―は根本的に誤りである。
むしろ宗教の自由とは、キリスト教徒やヤジディ教徒といった少数派の「他者」に対するイスラム支配者の自由裁量的な寛容であり、その時々のイスラム当局の気分によって主観的に制限され得るものと捉えるべきであろう。
どのような場合でも、イスラム教徒を転向させることは禁止されており、通常は暴力的に禁止されている。イスラム教徒がキリスト教に改宗する場合、ほとんどの場合、暴力的な報復を恐れて家から逃げ出さなければならないことが続く。このような基本的な背景の中で、教会や家庭内での私的な実践を超えて、クリスチャンが福音を証しする能力を考慮しなければならないのである。
そこで、イラクのキリスト教は、「模範による伝道」と呼ぶにふさわしいものを発展させてきた。私たちクリスチャンは、脅迫的でなくまた転向させようとしない方法で、他の人々に奉仕することによって、自分たちのキリスト教的使命を外に向かって示すことができる。そうすることで、地域社会全体に対する謙虚で慈善的な奉仕の提供という形で示される私たちのコミットメントや動機について、彼らに考えるきっかけを与えることができるかもしれない。イラクをはじめとする中東では、多くの学校や病院がキリスト教と提携して運営されているのはこのためだ。私たちは、その中でできることをやって、キリスト教の使命を忠実に果たし、間接伝道をしているのだ。
欧米の人たちは、それが自分たちが理解している信教の自由とイコールでないことに気づくだろう。しかし、それ以上のことをすれば、暴力が危険なまでに広がり、イスラム教徒を含む多くの無関係な人々に実害が及ぶ可能性が高いことは確かである。無謀な行為ではなく、大きな慎重さが要求される。
しかし、証しに対するもう一つの被害は、私たちキリスト教界における分裂によってもたらされる。歴史的に知られている分裂は何世紀にもわたって私たちを悩ませてきたが、ここ数十年の間に、この地域の外から入ってきた信仰の形態による新たな分裂が見られるようになっている。多くの深く主張される意見にはそれなりの正当性があり、その解決は私たちの継続的で尊敬の念に満ちた対話にある。しかし、キリスト教界内における意図的な布教活動は、私たちのエキュメニカルな結束を損なうだけでなく、イスラム教徒に対する私たちの共通の証人に対しても結束を損なう。
そして、協力することで、より大きな社会への奉仕を通して、私たちキリスト教徒は、今日の中東の多くであらゆる形の伝道を提供する唯一の効果的な手段を持っているのである。私たちは、このことが、平和に生きるという私たちの明確な意思だけでなく、私たちのキリスト教信仰の真実と実質を示すものであることを祈る。
(翻訳協力=中山信之)