現代ではイスラーム世界でも、一般的に西暦が用いられている。ただしイスラームの宗教儀礼に関しては今でも、太陰暦であるヒジュラ暦に則っている。「ヒジュラ」暦と呼ばれる通り、預言者ムハンマドがマッカからマディーナへと、迫害を逃れてヒジュラ(移住)した年であるユリウス暦622年を元年とした暦である。太陽ではなく月を暦の基準とし、新月から次の新月までを1カ月と見なす。1カ月は29日か30日、1年は約354日となり、太陽暦とは毎年約11日ずつずれていく。ということで太陽暦とは違って、毎年の月と季節は必ずしも一致しない。
断食月として知られるラマダーン月は、日本では今年3月23日から4月21日にあたった。ヒジュラ暦は単に月の満ち欠けに関する天文学的な計算によるものではなく、実際に新月の観測がなされて、月の開始が最終的に決定されるという宗教的伝統に基づいている。これは預言者ムハンマドの「新月を見て(ラマダーン月の)断食をし、新月を見て(ラマダーン月の)断食を終えよ」という言葉によるもの。その結果、国によってラマダーン月の開始日と終了日が異なることがある。現代の大半のイスラーム諸国では科学的アプローチも補助的に利用しつつ、この伝統的手法を守っている。トルコなど一部の国やグループでは計算に依拠するところもある。
さて、通常の月であれば月の開始にそれほど注目が集まることはないが、1カ月の断食という宗教儀礼に直接関わっているラマダーン月については、その開始と終了を決定する新月観測が俄然注目を浴びる。
イスラームが国教となっている国などでは通常、法務省や宗教省などがこの新月観測に関する実務にあたると同時に、国民にも「新月を見つけた人は通報してね」と呼びかける。ムスリムが少数派である国においては、国内イスラーム組織連合や新月観測のための専門委員会がその任務を遂行する。
この日本にも、新月観測日本委員会というイスラーム組織がある。ご承知の通り、天文学的には地球上のどの地点でどの時期に新月が見えるかは、科学的に前もって推測可能な時代である。ムスリムたちもそれは重々承知しているのだが、それでも彼らの多くは伝統を守って肉眼や望遠鏡などを用いて新月を探し、昨今ではオンライン配信されるようにもなった委員会ミーティングの最終発表を食い入るように見守るのだ。
ちなみに1982年に新月観測日本委員会が結成されてから40年間、日本でラマダーン月の新月が観測された試しはない。それではどうするのかと言えば、「国内で新月観測できなかった場合、最寄りのイスラーム国の観測結果に従う」という有名なイスラーム法見解に則る。日本の場合、マレーシアの発表に従うことになる。いわば「出来レース」のようなこの伝統だが、ある程度の宗教理解を備え、新月観測という行為に意義を見出すムスリムたちは、これをラマダーン月の風流のように捉えている。
なお、同一国内で新月観測に異なる決定が見られることは珍しくない。上記の方針的違いだけでなく、インドのように面積が広い国では地域によってラマダーンの開始と終了が異なる場合もある。少なくとも一つの国や地域においては一致してラマダーン月の断食を行い、断食明けの祭をお祝いすることが理想的とされるが、このようなことが起こってしまった場合、ムスリムはお互いに見解の相違を尊重すべきとされる。
さいーど・さとう・ゆういち 福島県生まれ。イスラーム改宗後、フランス、モーリタニア、サウジアラビアなどでアラビア語・イスラーム留学。サウジアラビア・イマーム大卒。複数のモスクでイマームや信徒の教化活動を行う一方、大学機関などでアラビア語講師も務める。サウジアラビア王国ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷局クルアーン邦訳担当。一般社団法人ムスリム世界連盟日本支部文化アドバイザー。