11月第1週の日曜日には、さまざまな教会で逝去者記念礼拝が行われる。伝統的に11月1日が「諸聖徒日」、11月2日が「諸魂日(死者の日)」とされているからだ。
「諸聖徒日」は、殉教者たちを覚えて始まったものだったが、後に聖人を記念する日となった。「諸魂日」は「すべての魂の日」。両日ともに、世を去りし人々の魂を覚える日である。
自分に与えられた人生を神と隣人とに返していくという生き方、キリストに倣った人々を教会は聖人と呼んできた。その中にアルフォンソ(1531~1617年)という人物がいる。彼は無学であったため、修道院の中で身分の低いとされる仕事をしていた。修道院の受付に座って、来る人を笑顔で迎えていた。その姿を見て多くの人は心を打たれていった。
ある日、アルフォンソに「説教をギリシャ語でしろ」と無理難題がふっかけられる。恥をかかせるためだ。アルフォンソは「そうですか」とうなづき、当日がやってきた。彼が何を話すのか、皆が注目している。アルフォンソはたった一つ知っているギリシャ語の祈り、「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)という言葉を静かに唱え続けた。そして「アーメン」(かくあれかし)と祈り、説教を終えた。
このアルフォンソの祈りは、素朴で、かつ深い。彼の人生が祈りに現れているからだ。このような祈りやあり方は、まさに人生や信仰の「道しるべ」である。私たちはこのような「道しるべ」を人生の中に現した人々を知っている。私たちを愛してくれたさまざまな人を思い起こすと、アルフォンソが「キリエ・エレイソン」と祈ったように、素朴な愛の姿がまぶたに浮かんでくる。さまざまな生き方や死に方、その先で迎え入れる神の姿。彼らが仰ぎ見た十字架こそが、人が生きるための「道しるべ」である。
だからこそ逝去者記念礼拝では、その教会に関係するすべての逝去者の名前が読まれるのだ。列席者はさまざまな人を思い浮かべながら黙想をする。それはありし日の誰かとの思い出に浸る、ということだけではない。逝去者達の生き方や祈りの先にある十字架を見つめ、神に感謝し賛美するためだ。そして地上の生涯を歩む思いを新たにする。神の「道しるべ」によって、天の全会衆と共に歩むためだ。ここに教会のレクイエムの本質がある。
伝統的な聖堂の造りでは祭壇の真下に墓地、あるいは納骨堂がある。毎主日行われる聖餐式は、生きている私たちだけでなく、死者たちもともに招かれていることを示すためだ。主イエスは「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネによる福音書14章3節)と言われた。主は十字架でその手を広げられ、私たちを常に待っておられる。その手で食卓の準備をされ、私たちの心と体の糧――聖餐にあずかるよう招いておられる。私たちは常に世を去りし者たちと主の食卓をあずかり、彼らと共に人生という道を歩んでいるのだ。
聖餐式を終えた後にベストリーで唱える祈りをもって、神の「道しるべ」を覚えたい。「我ら祈るべし。主はこの大いなるサクラメントによりて、御苦しみ、御復活、昇天、聖霊降臨の記念を残したまえり。願わくば、我ら今、主の血と肉を授かった恵みを深く謝し、主のいさおの深さを悟らせたまえ。願わくば、世を去りし者の魂、主の憐れみによりて安らかに憩わんことを。アーメン」
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。