カナダ 2021年の安楽死者数1万人 死はその苦痛を取り去るか

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医師幇助死の依頼を受けるクリスチャン医師として学んだことをユアン・C・ゴリガー氏が「クリスチャニティー・トゥディ」に寄稿した。

病院のスタッフに呼ばれ、患者のベッドサイドに行くと、彼女の苦痛が深刻であることが分かった。彼女は動揺し、息苦しそうで、顔には不快感といら立ちが刻まれていた。「もうこれ以上我慢できない」と彼女は泣いた。彼女は何年も慢性疾患に苦しみ、急性合併症で私の集中治療室に入院していた。彼女は衰弱し、疲れ果て、悲しみといら立ちが頂点に達していた。「もう死にたい」と彼女は泣いた。

ベッドサイドの私の隣には彼女の友人が立っていて、彼は彼女の苦悩に明らかに動揺していた。彼は「MAIDを頼れ」と言った。MAIDとは、「Medical Assistance in dying」の頭文字をとったもので、しばしば医師幇助死と呼ばれている。「そうすれば、今すぐすべてを終わらせることができる」。私はこの言葉に驚いた。私の住むカナダでは、医師による死への援助が可能なのだが、そのような方向に話が進むとは思ってもいなかった。しかし、彼女の苦悩を目の当たりにして、彼が絶望と無力感を抱いていることは分かった。

私たちは、患者が本当に死にたいわけではないこと、むしろ痛みや不安から解放され、急性期の病気とそれが将来的に何を意味するのか知る必要があることをすぐに理解した。彼女には、大切な人たちとの時間がほしいという思いもあった。私たちが、患者の症状や不安の解消に努めると、すぐに落ち着いて、より快適に過ごせるようになった。彼女が休息し、家族と会話する姿を見ていると、ほんの数時間前まで自分の命を絶つと叫んでいた人と同一人物とは思えないほどだった。

ただもっと信じがたいのは、カナダの患者にとって、自分の命をすぐさま絶つという選択肢は、ますます受け入れられやすくなっているということだ。

私は若いころ、医者になるのが夢だった。医者という職業は、知的要求度が高く、深い人間愛に満ちた崇高な職業に思えた。そして、医師として一人前になるために必要な長い道のりに身を投じた。当初は、医学が人々の苦しみを癒やすものであるという理想を抱いていたため、医学が文化や社会の大きな変化に影響を受けやすいことや、歴史上、医学がその尊厳を守るどころか、むしろ損なわせてきたことを理解できなかった。

2014年、私が集中治療専門医としての研修を終えて間もなく、カナダの医療界や広い文化圏で、医師による幇助死を合法化する可能性について真剣な話し合いが始まった。退行性疾患を持つ2人の女性が人生の終焉を求めた注目の訴訟が、この行為に対する世論の支持を集めた。死は現実的な脅威ではなく、慈愛に満ちた行為であるとみなされるようになったのである。私の仲間の医師たちも、このような道徳的コンセンサスの変化を擁護するために参加した。社会が医師による死の幇助を望んでいるのだから、医療関係者は患者への思いやりと尊敬の念を持って、それを提供する責任がある、と彼らは主張した。

その時、私は、医師幇助死を拒否する私たちは、倫理的に問題のある医師とみなされるのでは、と思ったことをはっきり覚えている。私たち医師は、患者の幸福よりも自分たちの倫理観の方を大事にすると思われるかもしれない。かつて死をもたらすことは悪であったが、やがて美徳とされるようになったのだ。道徳的な「進歩」の名のもとに、医療従事者は新たな役割を担い、新たな力を手に入れようとしていたのだ。命を救う力と命を取る力。私たちの足元が揺らいでいたのだ。しかし、それを拒んだ人たちはどうなるのだろうか?

筋萎縮性側索硬化症(ALS、別名ルー・ゲーリッグ病)という恐ろしい病気にかかったブリティッシュ・コロンビア州の42歳の女性、スー・ロドリゲス。進行性の障害に直面した彼女は、1993年にカナダ最高裁判所に対し、刑法が禁じる自殺幇助の禁止を覆し、彼女自身が自殺を行えるようにすることを訴えた。しかし、カナダ最高裁は、「この国家政策は、生命の尊厳に対する我々の基本的な考え方の一部である」と述べ、彼女の訴えを退け、この禁止を支持した。また、「乱用の懸念があり、適切な保護措置を講じることが非常に困難である」とも言及している。

それから20年後、まったく同じようなケースが法廷に持ち込まれた。今度は事情が違っていた。ベルギーやオランダのリベラルな自殺幇助制度を何年も観察していると、弱者が自分の意思に反して安楽死させられることから保護するためのセーフガード(保護措置)があることが分かってきたのである。

カナダの主要な生命倫理学者たちによれば、カナダの社会的価値観もまた変化していた。2011年にカナダ王立協会のメンバーが作成した影響力のある報告書は、「尊厳への訴えと人命の神聖さを結びつける試みは、哲学者によって広く批判されてきた」「個人の自律性や自己決定の価値は、(カナダ)社会の幅広い合意がある価値の中で最も重要と見なされるべき」であると主張している。

報告書は次のように結論づけた。関連する事実を慎重に検討した結果、生き続けることに価値がないと判断した、意思があり十分な情報を持った個人には、自殺や自発的安楽死の支援要請を不干渉とする、自律に根ざした道徳的権利が存在する。

法的な容認は、すぐに道徳的な容認に追い付いた。ALSを患ったグロリア・テイラーは、自らの事例をカナダ最高裁判所に訴えた。彼女は、「私の死は遅く、困難で、不快で、苦痛を伴い、品位に欠け、私が生きようとしてきた価値観や原則と矛盾するのではないかという不安の中で生きている」と述べ、死の幇助の可能性を求めたのである。法廷議事録で他の証人は、「自分が選んだ時期や方法で、自分の人生に平和的な終わりをもたらす能力がないことを知り苦しんでいる」と証言している。

2015年に出された歴史的意義のある判決で、最高裁は医師幇助自殺と安楽死の刑事的禁止はカナダ権利自由憲章、特に生命、自由、人の安全に対する権利に違反するとした。殺される自由を生きる権利に根拠づけることは直感に反すると思われるかもしれないが、裁判所は、医師による死の幇助の刑事的禁止は、「ある個人が、苦しみに耐えられなくなったときに、それができなくなることを恐れ、早々に自らの命を絶つことを余儀なくされる」と推論している。さらに、医師幇助死の禁止は、身体的完全性と医療に関する個人の決定、すなわち自由と安全の権利に対する干渉であると判断した。

その1年後、カナダ政府は裁判所の指示に従い、医療幇助死を合法化した。当初、この法律は、自殺幇助を「悲痛で回復不能な苦痛」を伴い、「死が合理的に予見できる」人に限定すると規定していた。しかし、自殺幇助の頻度が高まり、社会的に受け入れられるようになるにつれ、弱い立場の人々を保護するための制限は徐々に撤廃されてきた。

2021年には「合理的に予見できる死」の要件が撤廃され、身体障がい者でも健康な人であれば自殺幇助の対象となるようになった。その法改正の議会審議の中で、私は目に見える重度の身体障害を持つ2人の女性とともに、カナダ上院で証言した。彼女たちは、この法改正がカナダの障害者コミュニティーに与える悪影響について、雄弁に語ってくれた。

私は、カナダが彼女たちを自分の命を終わらせることができるとする一方、私のような身体的障害のない者は、医療支援死を禁じられることに、胸が締め付けられる思いがした。このことは、私たちの社会が障がい者たちをどのように評価しているかを物語っているのではないだろうか。

政府の公式報告によると、過去5年間で、カナダで医師の幇助を受けて死亡する患者の数は10倍に増え、2016年の約1000人から2021年には1万人以上となり、その年のカナダでの全死亡者の3.3%を占めるという。

得られたデータは、患者は医療幇助死に彼らの意に反して強いられたのではなく、「死の文化」(私は当初、不必要に挑発的な言葉として抵抗していた)は、潜やかに驚くべき方法で定着していると提言している。死への幇助は、もはや最後の手段としての絶望的な選択肢ではなく、むしろ数ある「治療の選択肢」の中の一つであり、死にゆく者だけでなく、生きる価値がないとされる人々にも提供される、苦しみを決定的に解決する合理的かつ有効な手段だと考えられているのである。

障害や精神疾患を持つ患者の中には、本人の意思によらず死への幇助を提案されたと報告する人もいる。安楽死を希望する患者の中には、手ごろな価格の住宅に入居できないために安楽死を求めてした人もいる。また、誤診に基づく医師幇助死を受けた(その誤診は解剖時に発見された)という報告さえある。来年、カナダでは、精神疾患を理由とする安楽死を認める法律が拡大される予定である。また、子供や青少年に対しても特定のケースで許可しようとする動きもある。

死の幇助の論理は、いかんともしがたいことが証明された。もし死が、苦しみや人生が無意味であるという感覚といった心理的な傷に対処するための治療であるならば、誰もが死の幇助に与る資格があると考えられてしまうではないか。

このモラルの進化が、死への幇助を拒否する医師たちに大きなプレッシャーを与えていることは明らかであった。医療関係者にかかるプレッシャーは、命を終わらせる行為を行うことよりも、それを行う人を故意に患者に紹介することである。しかし、紹介は軽いものではない。もし、私たちが、非倫理的とみなされる方法で患者を治療する医師に、故意に患者を送り込んだとしたら非難に値する。

オーストリアの有名な医師ハンス・アスペルガーは、ナチスによるオーストリア占領下において、子供の安楽死に関与したことで最近不興を買った。アスペルガーは直接的には子供たちを殺していないが、知的障害を持つ子供たちを第三帝国時代の診療所に紹介し、彼らの死に加担していたのだ。

多くのカナダの医師が、世界中の同僚と協力して、医療行為における良心の自由を主張しているが、その圧力は計り知れない。カナダのいくつかの管轄区は、懲戒処分の可能性を脅かしながら、効果的な紹介を義務付ける世界初の制度となり、カリフォルニア州も間もなくそれに加わる。ひとたび死がヘルスケアの一形態とみなされれば、ヘルスケアの「提供者」はそれを提供することが期待されるようになる。

死の医学的支援は、米国の10州とコロンビア特別区で合法であり、過去10年半の間に何千人もの人々が合法的に終末医療を処方されてきた。また、七つの国でも実施されている。

クリスチャンは、カナダにおける倫理的・文化的受容の進展に特別な注意を払う必要がある。安楽死が6年前から合法化されているカリフォルニア州では、この1月、死への幇助に関する規制が大幅に緩和された。安楽死がどのようにしてカナダにもたらされたかという物語は、学者の議論や裁判所の策略よりもずっと深い。それは、倫理に対する美学の勝利の物語でもある。

死への幇助は、合理的な道徳的考察というよりも、むしろ死をコントロールすることの魅力に根ざしたものであった。アラスデア・マッキンタイアは、感情論が現在支配的な道徳的パラダイムであると述べている。感情論者にとって、何かが良いというのは、単にそれが良いと感じるからである。そして、死への幇助は、まさに「正しい」と感じられると主張してきた人がいるのだ。

また、それは世俗主義が驚くほど宗教的に機能することもあるという話でもある。かつて死への恐怖が、この世の苦しみから逃れるために死を利用することを阻んでいた時代があった。自殺を考えていたシェイクスピアのハムレットは、「死後の何かへの恐怖/未知の国、その迂回路から/旅人は戻ってこない」ことによって思いとどまった。「良心は私たちを臆病にする」と結論づけた。

しかし、もし神が死んだのなら、良心はもはや警戒心を呼び起こすことはない。私たちは、死が何をもたらすかを知っていると思い込んでいるのだ。カナダのある医療提供者は、医師というより司祭のような口調で、幇助死を「死後の世界への安らかな移行」と自信たっぷりに説明した。

この手法は、神はいないけれども、それに劣らず宗教的な現実の概念に対する盲目的な信仰を表現している。

何より、これは人生の意味と苦しみのなかの目的を見出そうともがく個人の物語である。ユダヤ人精神科医でアウシュビッツの生存者であるヴィクトール・フランクルは、フリードリヒ・ニーチェの言葉を引用し、次のように述べている。「生きる理由がある者は、どんな方法にも耐えることができる」。「解放された」個人として、私たちは自分自身の個人的な意味を見出そうと主張するが、そのような作り出された意味は、救いようのない苦しみに直面したとき空虚であることが証明される。

苦しみはどのように意味があるといえるのだろうか。苦しみのある人生を価値あるものにするのは何だろうか。もし苦しみが不条理なものであれば、死を選ぶことは自然であり、合理的でさえあるように思える。フランスの作家で劇作家のアルベール・カミュは、「自ら死を選ぶということは、本能的にでも……苦しみの無意味さを認識したことを意味する」と述べている。

では、私たちキリスト教徒は、医師による死の幇助という問題にどう対処したらよいのだろうか。まず、理性と自然界の光によって、命の価値を絶対的に肯定することである。死の幇助や自殺は、尊厳の問題だと言われる。しかし、人を大切にするということは、その人の存在を価値あるものとするということだ。故意に人の存在を絶とうとすることは、必然的にその人を軽んじることになる。もし人が大切なら、私たちは故意にその人の命を終わらせてはならない。

第二に、私たちの教会は、弱い人、老いた人、障害のある人、死にゆく人が、共同体の貴重な一員とみなされ、死の幇助が考えられないような共同体になることができるのだ。私たち(教会)は、苦しむ人々が、献身的な交わり、愛、サポートを享受し、自分の価値を思い起こし、痛みを乗り越えて立ち上がる場所となることができる。これこそ結局、私たち全員が切望していることなのだ。

第三に、私たちは、苦しんでいる人、死に逝く人のために、最高の医療と緩和ケアを利用できるよう提唱することができる。緩和ケア運動は、クリスチャン医師であるシセリー・サンダース女史によって始められ、終末期の医療を大きく変えた。しかし、アメリカ、カナダ、そしてその他の国々では、優れた緩和ケアへのアクセスはまだあまりにも限られている。また、私たちは、病人や死に瀕した人をケアする医師や看護師が、死への幇助に参加することを強制されないよう、良心の自由の権利を擁護することができる。

最後に、私たちが世界のために担うキリストの十字架のメッセージは、苦しみと死に直面した場面で、信仰と希望、そして愛を力づけるものだ。私たちは、神の究極的な善の目的に対する信仰を持ち、神の贖いの力に対する希望を持ち、私たちの心に注ぐ神の愛を持っている。

苦しみは、私たちのためにご自身をお捨てになった方を知り、その方と交わるという私たちの真の意味を奪うことはできない。実際、神の恵みによって、苦しみはその交わりを深める役割を果たす。死んでキリストと共にいることははるかに良いが、忍耐と信仰をもって、私たちは主の呼びかけを待つのだ。

*ユアン・C・ゴリガー氏はトロント大学の医学と生理学の助教授

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