Q.キリスト教にとって、「悪魔的」で読んではいけないという小説はありますか。(60代・女性)
文学がキリスト教にとって「悪魔的」であるという考え方は、明治以降ピューリタンの宣教師によって持ち込まれた思想のように思われます。当時、プロテスタント教会で受洗もしくは信仰告白した青年たちが、棄教したところから文学者として出発しました。こうした信仰と文学との対立を現代に生きるクリスチャンは、どうとらえるべきでしょうか。
今日の文学界を俯瞰すると、活躍しているプロテスタント作家は少なくありません。しかし、カトリック文学が主導的役割を担っているとする識者が多いのです。彼らの文学作品を読むと、説教的であるというよりも、愛と死、光と闇といった人間の普遍的真実を、文学を通して追求しようとしている姿勢が目立ちます。
文学アレルギーを呈している〝信仰者〟の文章を読むと、この世の現実を凝視することなく、ただ観念的な善と悪、光と闇とを仕分け、簡単に分別しようとしているように思われます。神さまは別として人間は、そんなに白黒をはっきり識別する能力を持っているのでしょうか。人間の心の中には、もっとあいまいな部分があるということを突きつけることこそが、文学作品のメインテーマの一つであると思います。
確かに小説の中には、人間の欲望や快楽を刺激したり、情念を賦活させ、自己愛を増幅させるものも少なくありません。読む者の自我が未成熟で、人格が十分成長していない場合、こうした作品に触れると壁落への引き金となる可能性があります。
しかし、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」(詩編139編11節=新共同訳)というみ言葉があります。文学が人間の心の闇、すなわち、傲慢、貪欲、怒り、嫉妬、邪淫など、罪や欲望、自己愛などの現実を照射し、回心を促し、救いへと至る道筋を示すことができれば、それは「悪魔的」どころか、人間の魂の救済に役立つことになるでしょう。
ひらやま・まさみ 1938年、東京生まれ。横浜市立大学医学部卒業。東洋英和女学院大学教員を経て、聖学院大学子ども心理学科、同大大学院教授、医療法人財団シロアム会北千住旭クリニック理事長・院長、NPO法人「グリーフ・ケア サポート・プラザ」(自死遺族支援)特別顧問を歴任。精神保健指定医。著書に『精神科医からみた聖書の人間像』(教文館)、共著に『イノチを支える-癒しと救いを求めて』(キリスト新聞社)など。2013年、75歳で逝去。