過去に筆者自身が行ったフィールドワークの写真を整理していた時の話である。ムスリムの子どもたちが描いた絵を撮影した写真が出てきた。花やビルなどの建物を描いているものが多いが、中には自分の姿を書いたのだろうか、子どもが1人大きく描かれている絵もあった。どれも子どもらしく描かれていて、絵を見ているだけで和やかで優しい気持ちになる。
子どもたちの絵を撮っていた時、撮影許可をいただいたモスク管理者のムスリムに「人の絵を描くことは大丈夫なのか」と聞いた。たとえ子どもが描いたとはいっても、イスラームでは人物を描いていけないと禁じているからである。そのムスリムの方は、子どもたちに絵を描かせる時には生き物を描いてはいけないと教えている、ただ子どもなので注意しても忘れてしまい、自分や家族の姿を書いてしまう子どもたちもいる、と述べていた。
イスラームで描くことを禁止されているのは生き物である。無生物を描くのは問題ない。だからこそ、ムスリムの子どもたちが描く絵には花や建物が多いのである。なお、イスラーム諸国や地域にあるムスリムの学校では図工・作画の授業が行われているところもある。そこでは、教師は無生物を描くように子どもたちに伝えているということを聞いたことがある。
では、なぜ生き物の絵を描いてはいけないのか。それは預言者ムハンマドの言行録であるハディースに記されている。預言者ムハンマドによれば、画家は最後の審判の時に罰が与えられるという。当然のことながら、絵を描くことで生計を立てている人はこの言葉になす術もない。悩む画家にムハンマドの教友がもし絵を描き続けたいのであれば、花や木など魂を持たないものを描くことを勧めたという。ただ生き物、とりわけ人物画を描いてしまうとそれが美化されて描かれた場合、美化された様相がその人物そのものであると正当化されてしまう。ゆえに、本来のその人の風貌が正確に伝わらないこととなる。
イスラームにおいては預言者の姿を描くことは厳禁である。先述のハディースには預言者の容姿が記述されているが、それをもとに描くことも禁止されている。結果として、頭の中で思い描いた様相を描くことになるので、描かれたものが正当化されるだけでなく、イスラームの基本原則となるタウヒード(神の唯一性)に反することになるためである。すなわち、預言者は人間であり、神ではない。預言者を描くことで、その描かれた物が崇拝の対象になり、ひいては偶像崇拝につながる恐れがあるために固く禁止したのである。
子どもたちが絵を描くのは描きたいという気持ちがあるからであり、親がそれを許すのはそれを情操教育として評価しているからである。だが、イスラームの教義に準じるとなると、子どもたちが描きたいと思うものはすべて描けるわけではない。信仰に対して強い意志があれば絵を描いたところで何ら問題はないと思われるかもしれない。ただ、子どもたちは信仰や宗教教義が如何なるものであるのか知ってはいても、理解するまでには至っていない。
親としては子どもたちが自由に描きたい気持ちをくむことはできる。だが、できないことをできないと子どもに教えなければならない。たとえそうしたとしても子どもが納得しない限り、子どもは何度でも描きたがるだろう。子どもが絵を描く時に、こうした親のジレンマを垣間見ることができる。
小村明子(立教大学講師、奈良教育大学国際交流留学センター特任講師)
こむら・あきこ 東京都生まれ。日本のイスラームおよびムスリムを20年以上にわたり研究。現在は、地域振興と異文化理解についてフィールドワークを行っている。博士(地域研究)。著書に、『日本とイスラームが出会うとき――その歴史と可能性』(現代書館)、『日本のイスラーム』(朝日新聞出版)がある。