獄中でノーベル平和賞を受賞した劉暁波はボンヘッファーの『獄中書簡集』を再読する中で、「恐怖と死に従容(しょうよう)と向か」った林昭(リン・ジャオ)=写真下=に言及し、「拳銃でも突き破れない暗黒の中で君の血は唯一の燦めく光だ。ぼくの魂は火傷した」と記した。
林昭は文化大革命期の暴力が激化した1968年の4月29日、上海龍華空港第3滑走路で秘密裏に銃殺されたが、遠くに目撃者がいた。5月1日、上海公安局員が林昭の老いた母・許憲民を訪ね、銃殺に使われた弾丸の代金の5分を徴収した。母は苦悩に苛まれ、1975年に自ら命を絶った(父は1962年に林昭が逮捕された1カ月後に自殺)。林昭の罪状は何だったのか。
林昭は1932年に生まれ、47年にミッション系の蘇州景海女子師範学校に入学し、同年に宣教師により洗礼を受けた。その一方で、母と叔父の影響で共産主義に傾倒し、49年に蘇南新聞専科学校に入学。卒業後は農村工作隊で革命に参加した。彼女はすべての人間は平等であり、自由に全面的に発達すべきであるという点で共産主義とキリスト教を捉えていた。だが彼女は、1963年に獄中で「共産党に盲従したのは、出発点が情熱的な感性によるもので、政治的な理性ではなかった」と反省した。
「盲従」からの脱却は次のようであった。1954年、林昭は北京大学中文系に入学し、新聞学(ジャーナリズム)を専攻し、また同人誌『北大詩刊』などの編集に携わった。57年に反右派闘争が発動されると、彼女は「右派分子」とされた学友を支持し、このため「労働教養」3年の実刑を下され、中国人民大学新聞学専攻の資料室で監視付き労働を科せられた。そこで林昭は「右派学生」の甘粋と出会い、彼を連れて北京市灯市口の教会の礼拝に出席した。こうして2人は愛し合ったが、それを共産党は「プロレタリア独裁政権への攻撃だ」と非難し、甘粋を新疆に「流刑」とした。
林昭は北京に残されたが、1960年、病気療養のため上海に帰ることが許された。そして蘭州大学の「右派学生」と知り合い、同人誌『星火』に長詩「プロメテウス受難の一日」を寄稿した(全訳は共著『文革受難死者850人の記録――負の世界記憶遺産』集広舎に所収)。プロメテウスの漢語表記はいくつかあるが、林昭は「普洛米修士」と書く。「修士」は漢語で修行者や求道者を意味するからである。また、主神ゼウスに反抗して人類に火を与えて罰せられたプロメテウスの自己犠牲と、人類救済にイエス・キリストの十字架を重ね合わせていると言える。
その第2節で「はげ鷹があなたの内臓を喰らう/あなたの肉体は鉄鎖で縛りつけられているが/心魂は風よりも自由だ/あなたの意志は岩よりも堅強だ」とプロメテウスが称えられるが、その中の「心魂は風よりも自由だ」は「ヨハネ福音書」の「風は思いのままに吹く」を想起させる。他に「真理」が繰り返されるが、これは「真理はあなたがたを自由にする」に通じる。
だが「右派学生」など47名は摘発され、『星火』は創刊号だけで終わり、林昭は「反革命国家転覆の宣伝活動」罪で再逮捕され、キリスト者と同房に入れられた。彼女は過激な反革命分子でキリスト者とは共通の話題がないと思われたためだが、逆に心の通い合う「獄友」となった。林昭は詩編や賛美歌を多く覚え、日記は教会暦に沿ってつけていた。キリスト者が隣の獄房に移されても、アルファベットの暗号で密かに連絡し合った。
1965年5月、林昭は「反革命罪」で懲役20年を言い渡されると、「判決後の申立」を書き、その結びで「正義は必ず勝つ。自由万歳」と書いたが、文革の激化により先述のとおり彼女は密かに銃殺された。
1980年代初、林昭は「名誉回復」されたが、彼女に関する言論は厳重に統制されている。それでもインディペンデント映画監督の胡傑(08年に受洗)=写真上=は、ドキュメンタリー『林昭の魂を探して』を2003年に制作した(その後も改訂)。これは林昭研究の契機となり、米国デューク大学神学院の連曦教授は彼女の没後50周年の2018年に「Blood Letters: The Untold Story of Lin Zhao, a Martyr in Mao’s China」を出版した。実際、彼女は獄中において血で文を書いたこともあった。さらに、林昭の墓地は蘇州にあり、当局の威嚇や妨害にもかかわらず墓参する者は絶えない。
劉燕子
リュウ・イェンズ 作家、翻訳家。中国湖南省出身。神戸大学等で非常勤講師として教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。専門は現代中国文学、特に天安門事件により亡命した知識人(内なる亡命も含む)。日本語編著訳『天安門事件から「〇八憲章」へ』『「私には敵はいない」の思想』『劉暁波伝』ほか多数。