第26回参議院選挙の投開票日が7月10日に迫っている。あらためて「キリスト教と政治」について考えたい。特にクリスチャンの有権者、宗教を信じる人々の投票行動に興味を持つ方々に読んでいただきたい。
よりよい選択肢としての「クリスチャン」候補?
そもそもキリスト教はどんなに腐敗した政治形態とも併存・癒着できる。他宗教や無宗教政府のもとでも平和的に、または地下に潜りながらでも、その社会に存在するのがキリスト教だ。
次に、キリスト教の多様性は決して無視できない。現在、世界人口は78億7500万人に達する。キリスト教徒は、24億超を抱える最大の宗教だ。ざっくり3人に1人弱がクリスチャンという計算となる。どんな政治信条を持ち、どんな政体を支持するか。「キリスト教徒だから〇×党支持だ」と一概に言えないことは自明である。
何よりもクリスチャン政治家が誕生しても、世界が善くなるとは限らない。トランプ元大統領もプーチン大統領も「クリスチャン」である。ヒトラーも教会学校に通っていた。世界的に有名なアフリカの「神の抵抗軍(LRA)」は、モーセの十戒と民族的価値観を称揚するキリスト教テロリズムである。彼らに誘拐された少年兵に課せられるのは親殺し。少女は性奴隷として扱われる。
「キリスト教と政治」を語るのに、そんな極端な事例を出すな、と訝(いぶか)る人もいるだろう。では彼らの信仰が間違っていて、日本の「ごく普通」の教会の信仰が正しいのだろうか。なぜ神でもないのに、他者の信仰の成否を断じることができるのか。純粋な信仰を持ち得る者がいたとしたら、それは間違いなく、まことの神・まことの人なるイエス・キリスト、ただ1人である。政治も宗教も人間のわざである。それゆえ、必ず間違いや宗教的な意味で罪を含むものである。
キリスト教政党への夢
参院選を控えて、日本の教界でも「政治家のために祈ろう」という市井の動きがある。どの党からでもいいから、とにかくクリスチャン議員を増やそう、と応援を呼び掛ける人々もいる。
インターネット時代、SNS的つながりの中でキリスト教政党への夢を語る場面にも出くわす。1977年、第11回参議院議員通常選挙における「日本キリスト党」結成のち落選という総括なき失敗は忘れ去られてしまった。ネット民主主義の限界を感じてしまう。
確かに世界中にキリスト教政党は存在する。しかし、それは必ずしも良い政治を意味しない。多くの読者は「ドイツ・キリスト者」「積極的キリスト教」という政治運動がヒトラーを支持した結果を知っているはずだ。確かにクリスチャン候補者は人柄がよく、優れた信仰者なのかもしれない。しかし、それは良い政治家としての能力を保証しない。キリスト教それ自体とは距離があるように感じられる共産党や公明党でさえ、個別具体的な政策レベルでは、クリスチャンでも同意できることがある。
政策レベルでの投票を
候補者を選ぶ際、その候補を通じて何を実現したいか、が重要だ。政治において、思想を喧伝したいのか。または制度設計のために候補者を選ぶのか。それとも生活を守るために、底上げするために意思を託すのか。ちなみにキリスト教思想の喧伝なら、それは政治の仕事ではない。教会が自力で行うべき宣教である。選挙の皮をかぶる必要はないだろう。
またキリスト教的価値観は、少なくとも「人権」を掲げる民主主義には多少含まれている。それを超えて、それ以上の信仰的密度を政治に求めるならば、より積極的な宗教政党が必要になる。なお、武藤富男の事例のようにキリスト教政党ができても、その効果のほどは不明である。
では教会の歴史においてはどうか。そもそもイエスはメシアとして政治的勝利を捨てた人だったように記憶する。もちろん解釈はさまざまだろう。また「解放の神学」は、政治的闘争による抑圧からの解放と勝利こそが福音であるとの主張だ。政治的救世主になることを捨てたイエスと、政治的であることこそ福音的だと変革に献身する解放の神学のあいだ、そのグラデーションのどこにあなたはいるだろうか。
キリスト教徒ではない人々が大多数を占めるこの国で、クリスチャンに求められることは教会を選挙に利用することではない。求められていることは、政策ベースで教会の外、すなわち社会に必要なものを見極めて積極的に選択していくことである。当然、現職の為政者のために祈ることは命じられている。しかし、「〇×候補者が当選しますように」と祈れとは命じられていない。むしろイエスは「だから、こう祈りなさい」と主の祈りを教会に与えられた。
政治は人間のわざ
繰り返すが、政治は人間のわざである。今回の参院選も間違え罪を犯す人間の仕事なのだ。最良にも最悪にも転ぶ。だいたい最悪を引き延ばす。現在の30代以下の若い世代に、日本も世界もよくなっていく実感はない。基本的に、彼らにとって社会は壊れ続けているものだ。
では、選挙以外の手段があるのか。どうすれば壊れ続けていく社会の中で、神に従えるのか。暴力革命だろうか。思想、制度、生活の設計のどこに重点を置いて1票を投じるべきか。個人的には、冤罪の危険を顧みず、道端で倒れる見知らぬ人や迷子への声かけをためらわない意志の制度設計——「善きサマリヤ人の隣人愛」が広く認められる社会を願う。2022年の参院選、蛇のようにさとく、鳩のように直くありたい。
(波勢邦生/「キリスト新聞」編集部)
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科単位取得満期退学。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。