宗教改革の時代を生きたルターとエラスムス、また彼らが学んだ教父アウグスティヌスらの数々の著作を研究・翻訳し、日本における神学、思想、哲学研究に多大な貢献を果たしてきた金子晴勇氏。今回の特集にあたり、今も衰えることのないその情熱に触れつつ、改めてこの「500年」を振り返る意義について話を聞いた。(聞き手 波勢邦生/協力 岩田 園)
宗教改革の全体像から学ぶ
――「宗教改革500周年」から日本のキリスト教界は、何を学べるでしょうか。
金子 まず大きな精神的運動として宗教改革をとらえる必要があります。人類の遺産として尊重しなくてはなりません。私たちの日常というのは、食事をして寝て、起きてというつまらない毎日の繰り返しですが、彼らは困難な状況の中、生活と思想を後世に残してくれました。今を生きる私たちにはそれを栄養とし、自分たちの生活を豊かにしていく義務があると思います。ルターだけでなく、エラスムスの広さ、カルヴァンの明瞭さもすべてあわせて宗教改革の実りとしなければなりません。
――なぜ日本では宗教改革=ルターとなったのでしょうか。
金子 ルターがエラスムスの悪口を言ったからでしょう。当時、ルターは創立直後だったヴィッテンベルク大学の田舎教師でしたから、誰も相手にしませんでした。一方、エラスムスはブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の宮廷顧問で、エラスムスのひと言で国権が動くような影響力があり、誰もがその動向に注目していました。当然、教皇はルターを犯罪者にすることもできたわけですが、エラスムスが選帝侯に働きかけてルターを弁護し、ヴォルムス帝国議会に彼を召喚させました。
ルターは、エラスムスが自分に与しないと知ると、自分を批判しないようにと手紙で懇願します。エラスムスはその意を汲んで、贖宥状問題は論じることなく、アウグスティヌス以来伝統となっている「神の恩恵と自由意志」の議論をしようということになる。それが「自由意志論」でした。
しかしルターは、そこで救済における意志については、その一点だけが「奴隷意志」だと批判すればいいのに、エラスムスはすべて間違っているというように批判をしてしまった。メランヒトンは驚愕しました。結果、エラスムスはルターの「奴隷意志」に対して、さらに2冊の批判を書きます。ルターはそれに答えないで沈黙してしまった。
このようなルターが悪く言うエラスムス像が流通してしまったので、「宗教改革すなわちルターである」と日本ではなってしまいました。
――エラスムスの『校訂 新約聖書』もとても有名ですね。
金子 そうです。エラスムスの著作はとても重要です。実は、ルターは「悔い改め」という概念も彼から学んでいます。一例を挙げると、ラテン語で「ペニテンティアム・アギテ」は、直訳すれば「悔い改めを行いなさい」「悔い改めよ」という意味です。でも、当時の人々が聞けば、「告解のサクラメントを受けなさい」という儀式への参加命令になる。悔い改めのサクラメントは三つの要素からなっています。第一は、心で悪いことをしましたと思う「痛悔」、第二は悪いことしましたと「告白」する、第三は「罪の償い」をする。この罪の償いのために、十字軍や慈善事業に参加する、免罪符(贖宥状)を買うことになり、お金を払う。当時、教会はこれを金儲けのために行いました。
エラスムスは、この「悔い改めよ」という語について、新約聖書のラテン語注釈で「心を変える」としました。これがルターの「95カ条」の第1条に出てきます。しかし、ルターはこれを言わない。米国のベイントンが厳しく指摘していますね。
儀式化されたラテン語の意味をギリシア語から考えて信仰を回復させたところに、エラスムスの狙いがあった。たかが訳語とはいえ、習俗となったものは問題をはらんでいました。
宗教改革者たちの霊性
――宗教改革の霊性とは、どのようなものでしょうか。
金子 霊性というのは「信仰の洞察力」のことです。人間の認識能力には「感性」と「理性」と「霊性」があり、最後の「霊性」の部分を問題にしてきたのは、宗教哲学の影響です。私がいた京都大学の宗教学研究室は、伝統的に宗教哲学が強い。だから「霊性」の機能、作用、働きを明確にしよう、ということが研究の主題になりました。
日本では「霊」と言うと、オバケや幽霊のような話になってしまいますが、「霊」の働き、つまり「霊性」は「信仰の働き」のことであり、信仰を支えている生命源の力です。アウグスティヌスは、それを「心」という概念でとらえた。ルターは「良心」――神のみ前での自己意識ととらえた。シュライアマハーは「心情」で、言葉は違うけれども、皆「霊」の働きをとらえようとしました。
宗教改革者たち共通の要素、その中心概念が「霊」です。エラスムスは非常に優秀な学者ですから、「オリゲネス的な三区分法」と名付けて、霊・魂・身体を、最初の神学的代表作『エンキリディオン』の人間論に据えました。ルターは当初、霊・身体という二区分法を用いていましたが、1522年の『マリアの讃歌(マグニフィカート)』で三区分法を採用します。当然ルターがエラスムスに従って、それを採用したと考えられるわけですが、ルターはエラスムスに言及していません。
――宗教改革者たちが共有していた霊性とは、「デボチオ・モデルナ」の伝統でしょうか。
金子 「デボチオ・モデルナ」の中には「霊性」という言葉は、はっきりとは出てきません。「魂」という言葉が使われています。「デボチオ・モデルナ」は「近代的敬虔」と訳されるものですが、ネーデルラントからフランスまで伝わっていく一般信徒の信仰運動でした。その過程で、当時のゲルマニアに伝わり、近代的敬虔に基づく学校がいくつもできました。ルターもエラスムスも、その学校を出ています。そこではドグマを教えるよりも魂の訓練を重んじますから、霊性へと傾いていく。この流れの中に宗教改革があり、当然、イエズス会もあるわけです。
――カルヴァンも、フローテ、ケンピス以来の「デボチオ・モデルナ」影響下にあるでしょうか。
金子 カルヴァンは「キリストと一体となる」ということを絶えず語る人です。そこから、おそらくその影響はあっただろうと推測できますが、確定はできません。
――宗教改革の結果としてのイエズス会の日本宣教はどうでしょうか。
金子 もしデボチオ・モデルナが、日本宣教にも生きていたとしたら、本当に面白いと思いますが、やはり断定はできません。
日本の教会史を読んでみると、最初の宣教師たちは、この派の代表的思想家トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を『現世の蔑視』として日本語に訳しています。ですから当然、その影響がありますが、主にトマス・アクィナスの影響下で、神が存在するか否かという議論が多くなされています。もちろん魂の救済についても論じられています。
当時、信者になった人々は、親鸞の教えを聞いた浄土真宗の人が多かったようです。カトリック教会には世界宣教の意図がありました。だから秀吉の反感を買ったわけですが、もしルターの影響が当時の日本にも及んでいたら、と考えるのは楽しいですね。当時、40万人のキリシタンがいたというのですから、人口比では驚異的な数です。
――昨春(2016年)出版の『キリスト教人間学入門――歴史・課題・将来』(教文館)では、「仏教的な霊性との対話」から「キリスト教の深化と普遍化」へと進み、ルターと親鸞を対比して締め括られています。
金子 「遁世的に見える日本仏教は、そうであるだけますます知性的に深淵な洞察力を秘めており、その反対に今日のキリスト教は、あまり活動的になると、思想的に貧困化するおそれがあるため仏教から学ぶことも多くあるのではないか」と書きました。
親鸞は、宗教の質において非常に高い。ルターとほぼ同じ内容の思想を持っています。ただ、仏教とキリスト教ではドグマがまったく違う。親鸞とルターの思想を学ぶと、両方が相通ずるところがあると思う。それが先にも指摘した「信仰の洞察力」です。それを霊性と言っているんです。教義の違いは違いとして認めた上で、お互いが同じ傾向の宗教心を持つ者として、親しく交わることができる可能性があります。
阿弥陀経は、仏教から変化したものですよね。それを、法然が自分の立場で読み取って、親鸞が受け取って進化させた。ルターと親鸞の宗教が持っている論理、「逆対応」という霊性の論理が似ています。
例えば『キリスト者の自由』を読むと、神秘主義的な表現ですが、キリストと魂は、花婿と花嫁のように一つとなるという。これは比喩以上のものです。新郎のキリストは良い新郎で、新婦の魂は悪い娼婦だという。高貴なキリストと悪い娼婦のような魂、この関係は一般の結びつきと正反対で「正しさと不義」という形になっている。これが、親鸞の霊性論理「逆対応」です。善人が往生する、ましてや悪人をや、という。悪人は罪の自覚を持っている。だから救済にとても近い。ここがよく似ている。
もう一つ似ている点があります。それはルドルフ・オットーが教えてくれたことです。彼によると、宗教には二つの側面、要素がある。一つは、神の御前に立つときに恐れの感情を持つこと、つまり「戦慄すべき秘儀」です。また一つは救われた喜び、「魅するもの」法悦の境地です。ルターはそれを欣喜雀躍、喜んで小躍りするような感情と表現しました。
親鸞の宗教には、恐れと喜び、この二つがある。つまり、「霊性論理」と「戦慄すべき秘儀・魅するもの」の二つがあって、それがルターとよく似ています。
――キリスト教と日本的な「霊性」の対話といえば、鈴木大拙や京都学派でしょうか。
金子 京都大学のキリスト教学研究室も宗教学研究室も、京都学派の西田幾多郎や波多野精一の影響を受けています。私は田舎者だし学者になろうなんて夢にも思っていなかったのに、周囲から「大学院に行け」と言われて、宗教学研究室の西谷啓治先生のもとで学びました。修士論文を書き終わったら、先生は近世哲学へ移ってしまった。「学者なんてたいへんな仕事は嫌だ」と思って、高校教師になろうと試験を受けたけれど、全部落ちてしまった。そこで西谷先生と親しかった武藤一雄先生の計らいでキリスト教学に入れてもらった。有賀鐵太郎先生や、集中講義で来られた北森嘉蔵先生からも学びました。
京都で宗教学を学べば、当然、仏教の力が強いんです。友だちはみな親鸞を読んでいました。道元はちょっと難しいですが、他の禅宗のものも、かなり読みました。それに負けないでね、「キリスト教だぞ!」と堅持するのは、結構たいへんなことです。武藤一雄先生は随分と努力されていました。
鈴木大拙は『日本的霊性』や『神秘主義―キリスト教と仏教』などを読みました。禅宗は「悟り」、キリスト教は「人格的な関わり」であって、両者はまったく違います。大拙の親鸞理解も禅宗に引き寄せ過ぎているように思います。キリスト教の理解にも疑問を感じました。
西田幾多郎は『場所的論理と宗教的世界観』という論文の終わりで、自説をさらにキリスト教に近づけて考えています。仏教とキリスト教の相反する方向性を認めた上で、一方の立場に立つだけでは真の宗教ではないとして、相互理解を促進しようと語り、最晩年には両方が相互に相手から学ぶべきものがあると示唆しました。教義を譲り合うことはできなくとも、信仰の主体における「霊性」については学び合える。私たちは、ここから信仰の深化と普遍化に至る希望を持つことができます。
見えないものを可視化する愛
――当時の欧州とはまったく状況の異なる日本社会が、宗教改革時代を学ぶ意義とは何でしょう。
金子 ヨーロッパが通ってきた道と日本の通ってきた道とは同じではありません。欧州では、個人というものが中世を通じて教会の中で育ってきました。特に個人に最も目覚めたのが、ルターの先生であるウィリアム・オッカムです。オッカム派において、個人の独立、神と人が対応関係をもって一対一で関わるということが始まった。そしてそれはカントによって完成します。
では個人という概念がどう発展し、それに伴ってどのように宗教が変化したのか。その最大の変化は宗教の世俗化です。世俗化というのは、宗教の社会的役割がなくなることです。科学の発展によって、病人の世話、貧困の対策など教会の機能が国家の役割に変わっていく。そうなると教会は社会的に力を発揮できなくなっていく。日本は、その弱体化と衰退期の只中にあるキリスト教に出会い、それをキリスト教だと信じてしまった。しかしその前に、中世があり宗教改革という時代があった。
私が若いころは、キリスト教を学ぼうという雰囲気がありました。それは敗戦という苦しみを経て、キリスト教やヨーロッパの文明を学び、日本を少しでも良い国にしようという気持ちがあったからです。しかし、現代の人々は物質的に満たされているので、欧州まで行って学ぼうとは思いません。衣食住が足りてしまうと、知りもしないのに他国の文化を見下して学ぼうとしなくなった。
日本に欠けているものがあるとすれば、それは生き方、生きがいに関する文化です。エラスムスがすごいのは「財産は価値がない」と言い切ってしまうところです。当時の人々がいかに財産中心で生きていたか、ということでもあります。物的な量ではなく生活の質の問題を問うという生き方を、エラスムスから学ぶことができるのではないでしょうか。
文化は人間の生活の仕方ですから、当然、霊・魂・身体、または霊性・理性・感性という人間の三つの次元があるわけです。それぞれの次元を養わなくては人格の全体が豊かにはなりません。
そして、霊性を豊かにするのが教会における説教です。ルターは、説教の改革者という意味で最も優れています。聖書を具体的に教えること、これが霊性を育てるのです。他方、理性とは教育の面に関わっています。日本の教育は立身出世という目的意識の強いものです。この大学を出れば、あの企業に就職できるという、道具的な理性の使い方ばかりです。
しかし、理性を道具として使うというのは近現代のヨーロッパから起こったことで、その前には理性にもっと深い意味がありました。ティリッヒの言葉で言えば「理性の深み」です。実証的なことばかりではなく、もっと人間の内面性に関わるようなこと、理性の開発のためには内面性が重要です。
内面のない人は外面にこだわる。日本人が、金だ、出世だと外側のことばかりにこだわるのは、理性が自分自身を耕していないから、内面性が欠如しているからです。内面性の充実は、他者との会話にあります。心を開き、自分の主張を理性的に語るだけではなく、相手のことを思って互いに会話を交わす。相手のことを考えることで、自分の中での他者との関りが深まっていく。相手を思いながら、どう言おうかと考える。これこそが本当の対話です。
真の理性というのは、道具としての理性ではなく、他者と関わって対話する理性、思いやる理性です。宗教改革の3人に特徴的なことは、他者や社会に積極的に関わりながら、神との対話、祈りを実行していたことです。
こうして耕された理性と霊性がなければ、良い感性が出てこないのではないかと思います。多くの場合、感性から始まって理性に止まり、霊性には届かない。しかし、霊性が働くことで、理性を耕し、感性を身体化するという側面があるのではないかと思います。
インターネットの普及で断片的な知識を前提とした現代には、主語と述語はあるけれども、文章と文章をつなぐ接続詞がない印象を受けます。情報はあれど、思考が展開しない。情報に反応するだけでなく、それをとおして思考することが欠如しているように思います。
霊性がないと視野が狭くなるんです。神を頭において考えると、行動の視野が広がります。神がなければ、どうしても自分の利益だけを追求してしまう。神様が見ておられる、と思うと視野が広がる。自分の利益を超えた広がりを持つには霊性が必要だと思います。
霊性という概念は曖昧で明示性がありません。では概念規定できないものには意味がないかというと、そうではありません。霊の場所は「真っ暗な神殿」だとルターが表現しています。なぜ暗いかと言えば、理性の光が照らしていないからだと。理性は、推測できる法則までならたどり着きますが、数量化できないところでは何もできない。この暗闇の中で神をとらえる働きが霊性です。
では、どうすれば、霊性がわかるのか。それはルターもエラスムスも一貫して主張することですが、愛によってわかる。愛の働きが、目に見えないものを可視化するのです。口先だけの言葉かどうかは、行動を見ればわかる。
神がいるかいないかはわかりません。しかし私自身の半生を振り返ってみても、神様の指導があったと言わざるを得ません。宗教改革500周年も、そういう目に見えないものを可視化する愛に、立ち返る好機ではないでしょうか。
――ありがとうございました。
かねこ・はるお 1932年生まれ。62年京都大学大学院博士課程修了。文学博士(京都大学)。現在、岡山大学名誉教授、聖学院大学総合研究所名誉教授。著書に『ルターの人間学』『ヨーロッパ人間学の歴史』『現代ヨーロッパの人間学』『ルターとドイツ神秘主義』『教育改革者ルター』『ルターの霊性思想』などがあるほか、ルター、エラスムス、アウグスティヌスの訳書多数。