休暇の必要性は感じていらっしゃるようなので、その点は論じません。問題は、なぜ、それを感じながらもあなたが役員会に相談できないか、でしょう。
牧師が休むことを快く思わない役員がいますか。残念ですがその役員を説得するのは無駄です。仮に説得できてもくたびれ、その疲れを取るためだけに休みを使ってしまいます。さらに翌年再び休みを取る際、またあの人を説得しなければならないかと考えると、それだけで憂鬱になります。しかもそのようなメンバーを含む役員会側から「休んでください」との申し出を待つのは、皆既日食の出現を待つようなものです。
ここは根回しなしで、役員会の席上「休みます」と堂々とおっしゃったらどうですか。「休みをいただけなければ仕事はできません」ぐらいの主張を通してください。本当に必要なものに躊躇は不要。渋々認めてもらってもいい。要は休暇明け、元気になった顔を見せればいいのです。お土産も少しばかりは必要でしょう。なかなか気遣いも難しいところですが、恒常的な休暇を確保するためには必要な戦略と観念してください。
むしろそれよりも、休暇を申し出ることをそこまで慮るあなたの心が気になります。休暇中、教会で何かトラブルが起こりはしないか、同時に、こんなときに牧師は休んでいる(遊んでいる)との批判が起こらないかと恐れていませんか? 「休みを主張するほど、働いているのか?」と陰口を叩かれるのが不安とか? いろいろ考えると、休みなど要求しない、働き続ける「良い牧師」を教会で演じ続けたほうが楽だ……と本音では思っていませんか?
もしそうなら、休む――それは以上の「思い煩い」こそを「何もかも神にお任せ」(ペトロの手紙一5:7=新共同訳)するときだと覚えてください。あなたが「良い牧師」ではなく、神の前の「罪許されたただの罪人」であることを知る、神さまのくださる時間(カイロス)なのだ、と。
しおたに・なおや 青山学院大学宗教部長、法学部教授。国際基督教大学教養学部卒業、東京神学大学大学院修士課程修了。大学で教鞭をとる傍ら、社会的な活動として、満期釈放を迎える受刑者への社会生活を送るための教育指導をはじめ、府中刑務所の教誨師として月1度ほど、受刑者への面談や講話を行う経験を持つ。著書に『忘れ物のぬくもり――聖書に学ぶ日々』(女子パウロ会)、青山学院大学の人気授業「キリスト教概論・Q&A」が書籍化された『なんか気分が晴れる言葉をください――聖書が教えてくれる50の生きる知恵』(保育社)など多数。