Q.キリスト教徒(クリスチャン)の友人が、仏壇をもてあまして困っています。捨てるわけにもいかず、もらってくれる人もなく……。(80代・男性)
私の母は80歳近くになって洗礼を受けました。小さいころ、近くの教会の日曜学校に通っていたこともあって、キリスト教には親近感を持っていたようですが、その歳まで洗礼を受ける決心には至りませんでした。その理由の一つが、洗礼を受けてクリスチャンになった場合、家の仏壇はどうなるのかという悩みでした。息子の私が「クリスチャンになったら仏壇は必要ないのだから、処分すれば?」と言ったところ、「なんと罰当たりなことを!」と、血相を変えたものでした。「それならば、仏壇の扉を閉めておいたら」と、妥協案(?)を出したところ納得したようでした。
仏壇は先祖(死者)を供養することによって、禍いや崇りから免れるための儀礼の場所とされています。しかし、仏教の本来の教えはそうではないようです。「供養とは〈敬い〉であり、〈敬い〉を姿、形であらわしたものを供養というのです。〈敬い〉が抜けたら供養ではありません。死んだ人の霊を慰めてやろう、先祖のために勤めてやろうと思っている人の心には〈敬い〉はないでしょう」(藤田徹文『わたしの浄土真宗』)
僧侶の中には、仏壇を拝むことが信心ではない、見えない阿弥陀仏を拝むことこそ仏教の信仰である、と言い切る人もいます。仏壇は信仰の一つの形ではありますが、それ自体が「聖物」ではないということです。
ですから、先祖を〈敬う〉心を失ったところで、いくら儀礼を行っても供養にはならないのです。「先祖(死者)供養の呪詛」から解放されることが大切といえましょう。私自身は仏壇が家の中にあっても一向に構わないと思っています。先祖への〈敬い〉の気持ちを思い出してくれるものならば、それはそれとして意味があるかもしれません。
後日、洗礼を受けた母を訪ねた時、仏壇は白いシーツで覆われていました。母なりの気持ちの整理だったのでしょう。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。