映画『友達やめた。』 好きとむずかしさのあいだ 今村彩子監督インタビュー 2020年9月20日

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 生まれつき耳が聴こえない映画監督・今村彩子と、アスペルガー症候群と聴覚過敏を抱える〝まあちゃん〟との友情のゆくえ。映画撮影を日常的なコミュニケーション手段そのものとするような近しさが全編を占める『友達やめた。』は、《障碍と社会》をめぐる様々な問題を考えさせる作品だ。

 ふたりはネット予約にさえ難儀しながら、台湾や長野などへ旅行に出かける。しかし映画を観る誰もが予想する通り、面倒事や諍いは次々に起こっていく。あたかもレンズを通すことで内省を保とうとするかのような監督の独白は、この状況をたとえばこう懐疑する。「このままでは私は、まあちゃんではなくアスペを撮っていることになる、うーん」と。

 わかり合えないことを、障碍のせいにしてないか。つき当たったこの問いがもつ意味は深い。対人関係のもつれの因子を、ひとは相手の属性に求めてしまいがちだ。相手が女性だから、男性だから、外国人だから、黒人だから、同性愛者だから、障碍者だから。そうして差別をめぐる普遍的テーマを底に響かせながらも、全体としてはおおらかで緩いトーンにより進行する本作ではしかし、ふたりのどちらもが不意に「優生思想」の語をもち出すなど、ドキリとする瞬間も数多い。彼女らは互いへの視線の内に、優生思想の芽を読み取っていると自覚する。その告白は生々しく、それでも断絶より共生を望む姿は心に響く。

 「マイノリティ同士、仲良くできると思っていた」と語る監督。しかし障碍者同士だからこそ、深まる溝というものもある。例えばほぼ自力で生活できる“軽い”障碍者が「障碍」のレッテル貼り自体を差別と訴え差異の否定へ傾くのに対し、日常的な介助を要する“重い”障碍者が「差異があれば差別していいのか」と健常者以上の反発を示すなどのケースは、障碍者差別に関連した議論でしばしば登場する。耳が聴こえないながら一般社会で巧く立ち回れる今村監督と、言外の意図を読めず挨拶も苦手だが編集作業や取材仕事を音声面で手伝えるまあちゃんとでは〝軽い/重い〟が局面ごとに入れ替わる様を捉える本作は、こうした困難の通り一遍ではない複雑さを垣間見させる。『友達やめた。』のタイトルはこの意味でも面白く、それは「友達」や「障碍」という言分けそのものが、ときに問題の本質から目を背けさせると仄めかす。友達であるかないかなど、共に生きるか否かに比べれば大した問題にはならない。

 本作公開に先立ち、今村監督へインタビューを行った。まず本編に登場する優生思想の語をめぐっては、「誰にでもその芽はあり、自分にはないと主張する人ほど危うさを感じる。排除へつながる差別心は誰にもあるものだから、大切なのはそこから目を背けないこと、それについて学ぶこと」だと話してくれた。

 映画で語られない部分としては、監督自身による米国留学体験の話がとりわけ興味深かった。日本の映画製作学科では聴覚障碍者のサポート体制が未整備だったが、差別禁止法が施行される米国では手話通訳の補助にも国の支援がついた。このため彼女は米国へ渡り映画の技術を学んだが、当地では障碍者たちが他人の手を借りることに何の引け目もなく堂々としていることに衝撃を受けたという。相手への迷惑を予め遠慮してみせる謙虚な低姿勢はこの日本社会で美徳とされる一方、相手との距離・格差を自ら生み出してしまう。また美徳や道徳こそが差別の温床となり得ることは、この例に限らず近年の社会学研究等でしばしば指摘されてもいる。一見差別とは無縁にみえる「清貧の思想」だとか「ノーブレス・オブリージュ」といった教養層に尊ばれる道徳観自体が既存の差別構造を前提するし、差別を反道徳的とみなしポリティカル・コレクトネスを叫ぶリベラル系知識人が無自覚の差別感情をSNS上などで不意に露わにする事例は後を絶たない。

 また留学時のルームメイトが敬虔なクリスチャンであり、よく聖書を開いているのを見たというエピソードから展開した話も印象深い。それは今村監督のなかで、実父がある時期教会へ通っていた記憶に結びつくという。監督自身は特定の信仰をもたず、しかし何かに行き詰まった際には本へ指針を求めるところがそのルームメイトに近いのかもしれないと話す。実は『友達やめた。』の初鑑賞中に筆者が最も気になったのは、これだけ喧嘩し衝突しても断絶へ至らない理由は何か、という疑問だった。これについて監督は、「けっきょく好きだからだと思う」と答えてくれた。もちろん諍いのあとには距離を置くこともあるが、いつもそのうち寂しくなって連絡をとるのはお互いに好きだからだと。 

【映画】 『祝福~オラとニコデムの家~』 アンナ・ザメツカ監督インタビュー 2018年6月25日

 今回のインタビューでは今村監督の信仰に関する質問を初めにしたのだが、本当のところ映画本編とは無関係の質問をした理由が筆者本人にもよくわかっていなかった。出どころのわからない質問こそ重用しがちなのは自身の習性にすぎないが、この「好き」という言葉を聞いた瞬間に頭のなかで色々と筋が通った気がした。そこでは障碍者も健常者もなく、マイノリティもマジョリティも関係がない。ドキュメンタリー映画の場合、撮影行為自体のもたらす被写体人物への影響がしばしば問われる。たとえば自閉症の弟と世話する姉を撮るポーランド映画『祝福~オラとニコデムの家~』の監督アンナ・ザメツカは、本紙取材に対し「撮影対象の人生に与えてしまう影響の大きさについて深く思い知ったので、このようなリスクを負った映画製作はこれが最後になるだろう」と語っている。しかし今村彩子監督の場合、リスクではなくそれこそが目的なのかもしれないとさえ感じられる。対象との距離ゼロの人生=作品という映画の在りかた。

 自信に充ちる今村監督の佇まいは、話していて清々しく気持ちの良いものだった。彼女はいま、東日本震災後10年となる来年の公開を目処に、熊本震災やコロナ禍も含める災害と障碍者の関わりをテーマとした次作の編集作業に取り掛かっているという。また「六本木の高層ビル上階で働いているような」健常者男性にいつかスポットを当ててみたいとも話す。大変に楽しみかつ、稀有な視点をもつ撮り手なのだ。

『友達やめた。』
公式サイト:http://studioaya-movie.com/tomoyame/
9月19日(土)より劇場公開とネット配信を同時スタート。新宿K’s cinemaほか全国順次

主要参考文献:
綿野恵太 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 平凡社
美馬達哉 『生を治める術としての近代医療―フーコー『監獄の誕生』を読み直す』 現代書館
綾屋紗月 熊谷晋一郎 『発達障害者当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』 医学書院
江原由美子 加藤秀一 左古輝人 他 『争点としてのジェンダー 交錯する科学・社会・政治』 ハーベスト社

【映画評】 『祝福~オラとニコデムの家~』 物語としての信仰と、家族というフィクションと 2018年6月27日

『祝福~オラとニコデムの家~』 物語としての信仰と、家族というフィクションと。

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