主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。
詩編147編10〜11節(参考箇所詩編147編1〜20節)
馬は勇ましくあればあるほど馬としての本領を発揮するのであり、人の足は何物にも優って速くあることを足の本領とするものです。それは強さがすべてに優るとする論理であります。わたしたちは、その論理を疑うことなく生活の中に取り入れてきました。強さを身に付けるために努力を重ね、強くあり得ない者は努力を怠ったのであり、努力しても強くあり得ない者は、強い者が救済することはよきことである、とあたかも、それを決まり文句のように唱えてきました。
信仰は、その決まり文句を壊すのです。パウロは「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と主が言われた」(コリント二、12章9節)と言います。力とは、ここではキリストの力という意味です。信仰は弱さを強さに変えるのではありません。強い人間になれば、キリストを見失うでしょう。人は弱さの中にいてこそ、キリストの力を十分に受けることができます。詩編が「主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」というのは、自分の弱さの中にいてこそ、見えてくる神の恵みの世界に生きる人の姿であります。