四日 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
ヨハネ20章29節(参考聖書箇所同書20章24ー29節)
弟子トマスは、他の弟子たちから、主の復活についての証言を聞いたとき、そのお方の手の釘跡、わきばらの槍傷を見て触らなければ、信じないと言い張りました。トマスは、良く知っているイエス、そのお方にまちがいないか、どうかを確認したかったのでした。
その思いに応えて、主はトマスに手とわき腹をお見せになり、触ることすらも許されたのです。主は、トマスが主をよく知っている以上に、主御自身の方から「手とわき腹の傷跡は、あなたの罪の赦しのためのものなのだ」ということを、トマスに知らせようとされているのです。トマスは思わず「わたしの主、わたしの神」と告白をせざるを得ませんでした。主はトマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。トマスは見る前に、弟子たちの証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならないのです。わたしたちもまた「信仰は聞くことによる」(ロマ10章17節)というパウロの言葉を思い出す必要があるでしょう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばなりません。