なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。(マタイ8:26)
福音書は、主イエスの復活後、弟子たちが教会で語った言葉を編集したものである。それは主イエスの伝記ではなく、復活の光に照らされて、あの時あのように語り、働かれた主は今も生きて語り、働いておられるという信仰の証言である。
主イエスは、神の国の福音を宣教するために「向こう岸」に行こうとした。主が舟に乗り込むと、弟子たちも従った。ところが、湖上に出た舟は嵐に見舞われた。弟子たちは恐れて、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫んだ。主は弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言ってから嵐を静められた。主が一緒におられるのに嵐を怖がる弟子たちは、不信仰と言われても仕方がない。しかし主は、この不信仰な者の叫びを聞いてくださる。私たちも人生の嵐に遭(あ)って、幾度、不信仰な叫びを上げたであろう。しかし、そのたびに主は私たちの叫びを聞いて、時宜(じぎ)に適(かな)った助けを与えてくださった。その繰り返しの中で、不信仰な私たちが主イエスを信じる者に変えられてゆく。
主の復活によって船出した初代教会は、ユダヤ教から、そしてローマ皇帝から迫害され、嵐の海の小舟のように翻弄(ほんろう)された。このような時代の中で弟子たちは、かつて主イエスと共に向こう岸に行くために乗りこんだ舟に今の教会の姿を重ねて、湖上で経験した出来事を信徒たちに語った。信徒たちは、弟子の語る宣教を通して、復活の主が語っている言葉を聞き、信仰を取り戻して宣教のわざに励んだ。こうして教会は嵐の時代を突き抜け、全世界に広がっていった。今も教会は復活の主に伴われ、時代の逆風を越えて、「向こう岸」に向かって行く。