イエスとユダの経済学【聖書からよもやま話280】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、マルコの福音書の14章です。よろしくどうぞ。

マルコの福音書 14章4〜5節

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら三百デナリ以上で売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ユダがイエス様を裏切ることを決心した有名なシーンです。イエス様に注がれた高価な油をみて、「なんてもったいないことを!この油を売ってお金にすれば貧しい人に施しができたのに!」といくらかの弟子が怒りました。その中にはユダもいました。

ある意味でユダは現実主義者でした。しかし目の前のことに気を取られて長期的な視点を持つことができない人であったかもしれません。確かに、その油を売れば貧しい人にいくらかの施しをすることはできたかもしれません。しかしその施しはあっという間になくなります。一時しのぎでしかないんです。1デナリというのは当時の人が1日食べることのできる額だったと言われていますから、300デナリは300人に施せば1日で亡くなってしまいます。しかし、イエス様にその油を注ぐことは永遠に語られることです。そして多くの人を救いに導くこととなりました。

たとえば、発展途上国に対する本当の支援は食べ物を送ることではなく、食べ物の作り方を教えることだ、とよく言われます。食べ物を送っても、それを食べてしまえばそれで終わりです。しかしその作り方を教えれば、その国の人たちは飢えることがなくなります。ユダがもし油を売って、人々に施したら、いくらかの人がいくらかの間は飢えから免れることができたかもしれません。しかしそれで終わりです。イエス様はそんな貧しい人たちに「救われる方法」を教えました。救いというのは「心の飢えを満たすこと」でもあります。一時的に心の飢えを満たすことは、お金によってできるでしょう。しかし、一時的に終わらず継続的に心の飢えを満たすことはお金によってはできません。イエス様の救いによってしかできません。

ユダは一時的な問題解決しか考えていませんでした。しかしイエス様が考えていたのは恒久的な問題解決でした。病気に対してユダは「とりあえず熱をさげよう」とかの対症療法を考えていたのに対して、イエス様は病気を根本から治すことを考えていました。そこに大きな価値観の違いがありました。でも、そう考えると僕たちはユダのことを笑えません。僕たちには多分にユダと似たところがあります。目の前の問題に気を取られすぎて、長期的なビジョンを持てないことが多々あります。今日の十円のために明日の百円を無駄にしてしまうことが多々あります。

お金というのはバラければバラけるほど、力を失う性質があります。たとえば100円をまとめて使えばお菓子が買えますが、100人にわけて1人1円ずつもってしまったら誰も何も買えません。意味のないお金になってしまいます。この意味ではいわゆる「バラマキ政策」というのは、お金を細分化してしまう政策ですから必ずしも得策とは言えません。もちろん、本当の政治には根本解決とその場の対症療法の両方が必要なわけですけれど。

お金に限らず、知識も時間も体力も、目の前のことばかりでなく、長期的なビジョンをもって使っていくことが大切です。そして最も長期的なビジョンに基づく使い方は、「神の国とその義を求める」こと以上のことはないはずです。目の前の問題のために、祈りや信仰を後回しにすることがないように、気をつけなくてはいけないなと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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