聖書も信仰も、時代を問わないからこそ価値があるんです。【聖書からよもやま話92】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ルカの福音書の1章です。それではよろしくどうぞ。


◆ルカの福音書 1章48節

この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


ルカの福音書の1章はマリアさんの処女懐胎とイエス様の誕生のことが書いてあるのでクリスマスの教会ではよく引用される有名な箇所です。

マリアの処女懐胎については、信じる人も信じない人もいます。クリスチャンの中にもこれを文字通りに信じる人と、そうでない人がいます。僕はこれを文字通りに信じるタイプのクリスチャンですが、賛否のあることですし、これをそれなりの学者さんが論ずればそれだけで難しくて分厚い本が一冊や二冊は書けてしまうほどの難問ですから、ここでそれについて「本当かどうか」なんて論ずるつもりは毛頭ありません。

マリアさんは「あなた、神様の子を身籠りましたよ」と天使に言われて、それを素直に受け入れ、そして「どの時代の人も、私を幸いな者と呼ぶでしょう」と答えました。これが、その懐胎が本当であれ、そうでなくあれ、すごいなと思うんです。

神様のすごさ、えらさ、価値。聖書のすごさ、えらさ、価値。それは時代を超えています。聖書が新約聖書まで完成してからざっと2000年間、聖書はずーっと価値ある書物として読まれ続けています。他のどんな思想も、時代によってもてはやされたり、反対に無視されたりと、その価値は長いタイムスパンでみれば激しく上下します。ソクラテスやプラトン、アリストテレスの思想だって、中世の前半には無視されたりしました。東洋の孔子や老子の思想だって、時代によって価値は変わります。聖書ほど、長いスパンで価値の変わらない書物は他にないんです。

今、大事にされている他のどんな思想も、いずれ必ずすたれます。僕たちが生きている50年とか100年のスパンではわかりませんが、300年500年1000年のスパンでは必ずすたれたり、また流行ったりします。

これがとても大切なことで、聖書や信仰や教会の価値は、時代によって変動してはいけないんです。たとえば、現代の人が中世の教会をみて「素晴らしいな!」と思うだけではなく、中世の人が現代の教会を見ても「素晴らしいな!」と思えるようでなくてはいけないということです。教会の凄さ、聖書の凄さ、神様の凄さの本当にすごいところは、この「時代を超える」というところなんです。

教会が時代に対応することはもちろん大切なことです。しかし、時代にあっていれば何でも良いのかと言えば、そうではありません。イエス様はもちろんですが、ペテロやパウロ、アウグスティヌスやトマス・アクィナス、ルターやカルヴァンが見ても、変わらない価値がちゃんとそこにあるかどうか、それが大切なんだと思います。

そんなことを、15歳やそこらでさらっと言えてしまうマリアさんはすごいなと思います。ただものじゃありません。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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