「みんなで力を合わせる」ときの注意点【聖書からよもやま話37】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、使徒の働きの19章です。それではよろしくどうぞ。


◆使徒の働き 19篇32節

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。

使徒パウロがエペソの街で宣教をした時、デメテリオという銀細工職人が「こいつらが像は作るなとか言うから僕たちの商売はあがったりじゃないか」とパウロに反感を抱き、「我らの神、アルテミスの栄光を守れ!」という大義名分で人々を扇動しました。これに大勢の人たちが立ち上がり、暴動が起こりました。しかし、この暴動に参加した多くの人は、自分が何のために怒りの声をあげているのか、よくわかっていませんでした。

2020年にアメリカで黒人の権利と尊厳を守るために起こった「BLM運動」は記憶に新しいですが、ここでも一部でこれに似たようなことが起こっていたように思います。もちろん「Black Lives Matter」というスローガンも、そこに込められた意味も、その目的も間違ったものではありません。人権があらゆる人に共通の基盤であることは、常に再確認され続けなければなりません。しかし、この運動の中で、残念ながら一部の人たちは「人権を再確認する」という目的から明らかに逸脱した、単純な略奪や破壊といった行動を起こしてしまいました。このことがせっかくの理念に「ケチ」をつけさせ、反対勢力にも「大義名分」を与えることになってしまいました。

その光景を見たときに、「聖書の時代も現代も、人間って変わらないんだな」と思わされました。それは、そういった行動をとる人を非難する意味ではありません。聖書に書いてあるのは今も昔も変わらない人間の姿であり、そして僕自身も人間ですから、僕自身にもそういう一面があり、時としてそういう行動を起こしてしまうことがあるのだと、自戒させられたように感じたんです。

Photo by Tobias on Unsplash

たとえば個人的に誰かと言い争いになった時、しばしばその論争がエスカレートして、「ただ相手を言い負かしたい」とか「この怒りを伝えたい」という思いで、いつの間にやら最初にあった主張とはまったく関係のない「ただの悪口」とか「余計なこと」を言ってしまい、ただの争いだけが残ってしまった、なんて経験は僕にもあります。人間は、感情がヒートアップすると、特に怒りがヒートアップすると、元々の目的を忘れてしまうことがあります。怒り自体は必ずしも悪いものではありません。しかし、怒りには「当初の目的を忘れさせる」という性質があるのだということは、常に心に留めておく必要があるのだと思います。

特にそれが個人ではなく集団で起こった時、その行動はさらに暴走しやすくなります。人間は集団になると人格が変わってしまうことがあります。一人一人は良い人でも、集団として動いたときに、それが必ずしも良い集団であるとは限りません。ときに集団はそこに属するあらゆる個人から乖離して、もはや「誰の意思でもない意思」として暴走してしまうことがあります。集団はもともとは何かの目的をもって形成されるものですが、往々にしていつの間にやら、当初の目的を忘れて、自らの存在自体が目的となってしまうことがあるんです。もちろん集団も悪いものでは決してありません。「みんなで力を合わせる」のはむしろいいことです。しかし、そんな危険もあるのだということは、忘れてはいけないと思います。

「怒り」や「集団」に振り回されないこと。難しいですけど、少しずつでもできるようになれるといいなと思います。

なんだか今日は少し難しい話になってしまいました。
それではまた。
主にありて。MAROでした。


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