【連載小説】月の都(10)下田ひとみ

 

 

浅香台キリスト教会の玄関を入った右脇には、A4サイズのフロアケースが設(しつら)えてある。教会員全員の引き出しに、週報や月報、カードやチラシ、手紙やメモ用紙などが入れられた。

ここに「藤崎陶子」と書かれた引き出しが加わったのは、10月の第1週であった。

陶子の受け入れに関しては、予想した通り、最初は役員たちの猛反対を受けた。しかし、役員8人中の2人が、意外にも謙作の決断を強く支持してくれ、その結果として陶子は10月付けでこの教会に招聘(しょうへい)されることが決まった。

その時の役員会は残暑のきびしい9月末の午後に開かれた。

会堂には4脚の長テーブルが2脚ずつ向かい合わせに置かれ、その回りを10人が囲んでいた。

謙作と真沙子、そして牧師とともに教会を治める長老が3人。教会のさまざまな働きに仕える執事が5人。

テーブルには麦茶の入ったコップが置かれている。西日の当たる会堂はクーラーの効きが悪く、汗かきの謙作はハンカチで何度も額を拭っていた。

陶子の受け入れについて反対意見が次々に述べられた後、長老の天宮(あまみや)が賛成の口火を切った。

「皆さんのご心配はごもっともですが、神様のために献身された方を、どこも引き取り手がないとは情けない。つらい病気になられたのに、なお主に仕えられようとされるお覚悟がご立派だと思いませんか。こんな方にこそ、ぜひうちに来ていただきたい。私は藤崎先生をお迎えすることに賛成です」

執事の城島(じょうしま)も続いて立ち上がって言った。

「昨今の日本は心を病んだ方が多く、特に鬱(うつ)病などは風邪をひいたのと同じくらいの感覚で、誰にでも起こり得る病気だといわれています。また、年間の自殺者が3万人を超えた状態が長く続いた時期もあり、最近になって減ってきたとはいえ、現在もその数は甚大であります。これは真に憂うべき異常なことで、教会としても本気で取り組まなければならない問題だと、私は常々考えておりました。

こういう方たちに寄り添い、本当の意味で痛みを分かち合えるのは、同じ経験をされた方にしかできません。まさに神の計らいです。藤崎先生がうちの教会へいらっしゃる意義は大変大きいと思います」

最年長で信仰歴の長い天宮は、役員の中で一番重んじられている人物だったし、普段は控えめな城島がめずらしく自説を主張したことにも、心動かされた者があったようだった。

「神学校での成績はとても優秀ですね」

書類を見ながら一人がつぶやくと、あとの者たちも書類を手に次々と意見を述べ始めた。

「以前の職業が女優とはめずらしいですなあ」

「芸能界に馴染めず、心を病んで入院。主治医が熱心なクリスチャンで、この方の導きでキリスト教に入信。退院してから献身して神学校へ入学。しかし、勉強のストレスで卒業間際に病気が再発、再入院。退院した後、半年遅れて卒業……ですか」

「きっとすごく真面目な方なんでしょうねえ」

「そういう方が心の病気にかかりやすいって、よく聞きますよね」

「それに優しい人。純粋な人なんかがね」

「治らないんですか」

謙作は問われて、椅子の上で背筋を伸ばした。

「鬱病と一口にいっても、人それぞれで、この方の場合も予後の見通しは難しいようです。もしかしたら、このまま良くなられるかもしれませんが、再発のおそれがあることは否定できないというのが正直な話だと聞いています。でも、今は落ち着いておられますし、この方の場合、薬がよく効くようです。薬を服用しながら仕事をしておられる方は大勢おられますし、この方にとっては、社会復帰を果たすことが今は重要で、肝心なことなんです」

間を置かず、反対意見が飛び出た。

「でも、こういう人は環境の変化に弱いんじゃありませんか。うちに来たことで、それがストレスになって再発なんてことになったら、たまったものじゃありません。私は招聘に反対です。危険な賭けはできませんよ。爆弾を抱えているようなもんです」(つづく)

月の都(11)

 






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