【毎日連載】思い出の杉谷牧師(17)下田ひとみ

 

17 気管切開したキリスト

先生は年をとった。禿(は)げたり薄くなったりすることのなかった髪は、文字通り雪のように波打ち、飛び出た長い眉(まゆ)も、白く目の上を覆っている。背すじを真っ直ぐに、いつもきちんと背広を着て講壇に立つ先生は、私たちの目になかなか老人とは映らなかった。が、身体は確実に衰えていた。
もともとあった呼吸困難が、もっとひどく、もっと頻繁になり、医者に行くと血液中の酸素の量が大変に少ないと驚かれた。時々チアノーゼも起こし、青紫の唇(くちびる)をして苦しそうな息をしている。
ある集会でひどい呼吸困難におちいった時、先生は緊急に届けられたボンベの酸素を吸ってなんとか助かった。それ以来、先生は酸素ボンベを手放さず、どこに行くにもこれを手に出かけていった。
「先生が見舞いにきてかあさって、ボンベを持っとんさるだけ、話を聞いてみると、先生の方が私よりよっぽど重病人なんだが。私もう、すっかり恐縮してしまってなあ」
こんな言葉を私たちは、何度聞かされたかしれない。
「先生、大丈夫ですか」
「あ、うん、大丈夫だよ」
同じ問答は幾度も繰り返された。
「でも顔色が悪いですが、先生、今日はお休みになられたら」
けれど私たちの心配をよそに、先生は病人の見舞いや人々への訪問をやめなかった。
最後まで……。

 

72歳の夏、先生は胃癌(いがん)になった。大変困難な手術を受け、術後も呼吸器がなかなかはずれず、気管切開してカニューレをつけ、先生は言葉を話すことができなくなってしまった。
容体は常に不安定だった。持ち直したと思ったら悪化、安定したかと思うと急変。
でも先生は明るく、くじけなかった。付き添いの奥さんとふたり、病室で人々のために祈る日々。その姿に接して主治医は、クリスチャンではなかったが、先生のことを「気管切開をしたイエス・キリストだ」と本に書いた。
しかし、手術から1年4カ月後の、74歳の誕生日を迎えた11月、先生の容体は最後の悪化に向かっていった。
神奈川に住んでいる私のもとに危篤の報せが入ったのは29日だった。翌日、平成6年11月30日の午後、先生は息をひきとった。
付き添っていた牧師が、先生のために最後の祈りを捧げた。
主治医が、
「このお祈りが終わった3時32分を臨終の時刻としましょう」
といった。
こうして先生は逝った。
入院後、1度も家に帰ることなく、気管切開のカニューレをはずすこともないままで……。
教会の庭の落葉が、傾きかけた穏やかな陽を浴び、黄金色に輝いている。私は教会前の道に目をやって、実家からの迎えの車を待っていた。
先生の死を知らされ、羽田を飛び立ったのは3時間前だった。鳥取空港からまっすぐ教会に向かい、花に埋もれ、冷たくなった先生と会ったのは1時間前。前夜式に備えて会堂には椅子が並べられ、先生の死を悼み届けられたたくさんの花が講壇の周りを飾っている。
でも私にはそれらすべてが、どうしても現実のことのようには思えなかった。
教会がある。ステンドグラスも鐘もない、木造の古びた会堂。冬には隙間風が入り、夏はサウナ並みの暑さ。だがこの会堂の隅々に至るまで、その床も、その壁も、その天井も、杉谷先生の声が染み通っている。
それは日曜の説教であったり、祈祷会の聖書の説き明かしであったり、祈る声であったり、賛美歌を唱う声であったりした。この会堂で先生はたくさんの人の洗礼式を行い、多くのカップルの結婚式を司り──それなのに、ここで今夜は先生の前夜式をし、明日は先生の告別式をするのだ。
とても不思議だった。
先生の奥さんがさっきから、箒(ほうき)を手に教会の前を掃いている。辺りには誰もいない。どこが変わったというのだろう。先生が牧師館から今にもひょっこり出てきそうだ。
「やあ。帰っとったんか。お帰りなさい」
先生は私の姿を見たら、懐かしそうにきっとこういうだろう。あの飛び出した長い眉毛を、ちょっとだけ下げて、聞き慣れたあのかすれた声で。(つづく)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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