3月21日「祈りは危険である」

「祈りは危険」ということを十分に知らなければならない。祈りとは、わたしたちには馴染みもなく、備えようがないような秘められたものに向かって自分の言葉を発する営みである。 ―― そのことを思えば思うほどに、実際の多くの祈りが気が抜けたようで、しばしば全く陳腐(ちんぷ)な事実に、わたしはいつも当惑させられる。祈りにおけるこうした「気の抜けた状態」と「陳腐さ」は信徒と同じく牧師でも共通している。現実には、牧師の方が公の場で祈る機会が多いだけに、余計にそれが目立つことになる。

問い:力を尽くして発せられる言葉であっても、その牧師の口から出るよどんで生気を失っている ―― そのようなことが、どうして起こるのだろうか?

答え:それは、祈りが神の御言葉の土壌から「根こそぎ」引き抜かれているからである。そうしたものも「祈り」と呼ばれるだろうが、その祈りとは、所詮は装飾用の「切り花の言葉」にすぎず、テーブルを飾るために小さな花瓶に入れられただけの言葉となっている。手数をかけ、水をつぎ足してやる限り、それらは確かに美しく見える。しかし、その美しさは長続きはしない。その「切り花」は直ぐしおれ、そして捨てられてしまう。そのような「切り花」がしばしばディナーテーブルの目玉商品の飾りとして使われる。そういう場では花々は快い雰囲気を作り出す。けれども、その花が、テーブルにおける本当の主役、つまり一日の激しい仕事の後で人々の腹を満たし、カロリーを供給する牛肉やジャガイモに取って代わることには決してならない。

聖書の全ての御言葉は神の息吹を受けている、それは、いずれにせよ、何とか役に立つのである。 ―― 御言葉はわたしたちに真理を示し、わたしたちの反抗を露見させ、わたしたちの間違いを直してくれる。神の道に生きるように、わたしたちを訓練してくれる。その御言葉を通して、わたしたちは共に生きるものとされる。そして、わたしたちは、神がわたしたちのために考えている仕事を担う者へと変えられる。
―― テモテの手紙(二)3章16~17節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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