2月24日「強烈な想像力」

毎週の月曜日、わたしはいつもの仕事を離れて、メリーランドの森や小川に沿ってハイキングをする。最初の数時間はただの散歩である。疲れ果てているので、動きも緩慢(かんまん)で、周囲をよく見てもいない。その内、わたしは鳥のさえずりに気づき始める。樫の木の葉とアスター(エゾギク)の間をちらちら遊ぶ日の光がわたしの興味を惹(ひ)きつける。木々が生い茂る中で、一本のアメリカスズカケノキ(プラタナス)の堅固な根が、わたしを圧倒させる。その木の上へ上へと伸びる姿に沿って、わたしの目は天へと吸い上げられて行く。何年もこの森の小道を歩いているのだが、何度も今でも、これまで見たことのない虫を目にする。いつも驚かされるのは、その虫はどれも獰猛(どうもう)さと脆(もろ)い部分を併せ持っている。そのような驚きが、どれ程そこにあるのだろうか? 威容(いよう)を誇る岩石は、先史時代から続く100万年余りの日々を今の時代へと突きつけて、今その全く新しい姿を見せてくれる。色や形や香りが、種々に絡まり合ってどこまで入り込み、とても豊かに織りなしている、何と素晴らしい被造世界だろうか! 耳も聞こえず、口もきけなく、目も見えないままに、その森を通り抜けるわたしは手探りで道を進み「馬鹿の一つ覚え」という具合に一歩また一歩と足を進めることだけに没頭して、そこにあるものの断片しか見ることができない。それでもとにかく、月曜日の散歩によってわたしは少しずつ目覚めて行き「いつもの仕事」の中で眠りこけて見逃していたものに気づき始める。その覚醒した状態は、時々だが、木曜日まで続くことがある。あるいは、時折、日曜日までずっと続くことがある。この毎週の逍遥(しょうよう)を、わたしの友人は「エマオの散歩」と呼んだ。 ―― 「彼らの目が開けて、それがイエスであることが分かった。」(ルカ24章31節)

以上のように、メリーランドの森の中を散歩することは、わたしの身体的感覚に影響を与える。それと同じように、「ヨハネの黙示録」を読むことは、わたしの信仰的識別力に影響を与える。神が創造した世界に向き合う時と同じように、キリストの契約の素晴らしい御言葉に向き合うわたしは、極めて愚鈍(ぐどん)な者となっている。「ああ主よ 聞いてください この思い。わたしはなおも この貧弱な 死すべき姿で生きて行かねば ならないと それがあなたの 御心だろうか?」【アイザック・ワッツの讃 Come,Holy Spirit, Heavenly Doveの一節】「ヨハネの黙示録」の理路は思い通りにはいかない。「ヨハネの黙示録」に記されたほんの数か所を読むだけで、わたしの信仰の動脈にアドレナリンが勢いよく流れ始め、わたしはしっかり立って活き活きと元気になる。「ヨハネの黙示録」を読む時には、必ず想像力が駆り立てられる。わたしの目の前に展開しているものについて、「ヨハネの黙示録」はわたしの目を開き、新しい目で見ることが出来るようにさせる。この書の力には実に抗(こう)しがたいものがある。というのも「ヨハネの黙示録」は聖書の最後にあり、この書を除いては聖書の物語を読み終えることは出来ないからである。この書によって、わたしは新しい力を与えられる。というのも「ヨハネの黙示録」が「黙示文学的な幻」という馴染の薄い言葉を用いるために、わたしの想像力は刺激され活き活きと働きだすことになる。

このように「ヨハネの黙示録」には「はっきりとした利益」と「どうしても必要な回復」があるが「そんなものは読まない」と頑固に拒否する多くの人々がいる。あるいは「そこには悪いことが書いてある」と思い込み「ヨハネの黙示録」に書かれている言葉は読まないと決めている人がいる。そういう人は、ちょうど「おとぎ話は禁書にすべきだ。なぜなら、それは暴力的で、子どもたちに悪い夢を見させることで満ちているからだ」という人と全く同じような人である。あるいは「チョーサー【Geoffrey Chaucer 1343? ―1400. イングランドの詩人。当時の教会用語であったラテン語や支配階級の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である英語を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられる。The father of English poetry:英詩の父とも呼ばれる】の本は余りに難しく分厚い。だから要らないところは削除しよう」とする人々と全く同じ人である。「想像力も、知性も、どちらも要らない」と考える人である。速読術を使ってメトロノームのようにページを繰って素早く目を走らせる ―― そうしたことが出来ないと知ると、遅読の努力を放棄して、漫画やコマーシャルに目をやって、受け身の姿勢でも大丈夫なものの中に沈み込んで行く、そういう人が多いのである。

しかし「そのような無味乾燥なものではしのぎ切れない」という人々にとっては「ヨハネの黙示録」は贈り物である。天使と獣の空戦、派手な罰と輝かしい救済、万華鏡のようなビジョンと宇宙的な賛美の世界に読者を引き込む、強烈な想像力の作品である。

それは、子どもが本能的に自分の家であるかのようにくつろげる世界であり、大人が小さい子どものようになることで、道徳的な存在に浸透している根本的な葛藤や闘争への本質的な関与を取り戻す世界でもある。そして、神がわたしたちを創造した時の目的であった高々とした崇拝心を持つことと、人間的原初的欲求が承認されることを再発見する。

誰一人もこのようなことは見たり聞いたりしたことは一度もなかった。
誰一人一度もこのようなことを想像すらもしなかったものを ――
神は神を愛する者たちに備えてくださったのだ。
だが、あなたがたはそれを見て聞いたのだ。
神は聖霊においてあなたがたに全てを明らかにしてくださったのだから。
―― コリントの信徒への手紙(一)2章9~10節

 

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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