【断片から見た世界】『告白』を読む 「運命」の次元を生きること

「命運」から「運命」へ:一つの時代を生きるとは、いかなることを意味するか?

『存在と時間』の議論によるならば、現存在であるところの人間が「本来的歴史性」を生きるとは、自らがその内に投げこまれている時代において「遺産」を継承しつつ、自分自身に与えられた務めを果たす「命運」として実存することを意味するのでした。

「本来的な決意性のうちには、現存在の根源的な生起がふくまれている。この生起を私たちは命運としるしづけるのだ。その生起のなかで現存在は死に向かって自由でありつつ、相続されたものでありながら選びとられた可能性にあって、みずからをじぶん自身に伝承するのである。[…]現存在はみずからを伝承する決意性のうちで命運的に実存する……。」

ハイデガーはこの「命運 Schicksal」なる概念に加えて、「運命 Geschick」というモメントについても語っています。今回の記事では、人間存在が一つの時代を生きるということの意味を探るという観点から、このモメントについて検討してみることにします。

「共同存在」と、その本来的な生起の可能性:『存在と時間』の議論から

『存在と時間』第74節:
「しかし命運をともなう現存在は、世界内存在として本質からして他者たちとの共同存在において実存するかぎり、現存在の生起は共生起であって、運命として規定される。[…]運命は個々の命運からは合成されない。それは、共同相互存在が複数の主体がともに現前することとしては把握されないのと同様である……。」

議論を、二点に分けて見てみることにします。

現存在であるところの人間の実存は、他者たちとの「共同存在」によって規定されています。すなわち、人間は自らが意識しようとしまいと、また、他者たちと共に行動している時であろうと、あるいは誰もそばにはおらず、一人きりで行動している時であろうと、立ち振る舞い方から言葉の用い方、考えることから行いに至るまで、あらゆる実存のあり方が「共同存在」の次元との関わりにおいて定まってくるような存在者であると言えるのではないか。このことは、必ずしも「意志の自由」なるモメントを無にしてしまうわけではありませんが、「人間とは社会的動物である」という命題が、通常思われているよりもはるかに深い存在論的射程を備えていることは否定できないのではないかと思われます(同じ都市で生活している人間は、自然と歩く速度までその都市での「共同存在」のあり方に合わせて調整されてくる、等々)。

② 従って、人間が「決意性=『内なる呼び声』に聴き従う実存のあり方」を選び取り、おのれ自身の本来的なあり方へと向かってゆく時にも、必然的にそのモメントに対応する「共同存在」のあり方が存在するのではないか。「共同存在」は、「漠然と〈ひと〉と同じように振る舞う」というだけではなく、「それぞれの人間が、共に生きることを通して各々自身の『自己』を選び取ってゆく」という本来的な生起の可能性をも持っているのではないだろうか。まさしく、そのような「共同存在」のあり方こそが『存在と時間』の議論において「運命」と呼ばれるところのものに他ならないのであって、現存在であるところの人間は、「命運」として実存する時には必然的に、同時に「運命」の次元をも生きることになります。すなわち、彼あるいは彼女は、「内なる呼び声」の呼びかけを通して自分自身に与えられることになる「これ以外にはない生き方」を選び取るのと同時に、何らかの「同胞たちと共に、本来的な仕方で共同存在すること」をも同時に選び取ることになるのであって、このようにして「命運」の生起は必然的に「運命」の共生起のモメントにも繋がっているというのが、上に引用した箇所における議論の流れであるものと思われます。

「一つの時代を生きる」とは、「共同存在」を生きることにほかならない

『告白』におけるアウグスティヌスの場合を例にとって、考えてみます。

『告白』第九巻第一章より:
「わたしは何ものであり、どのようなものであるか。わたしはどんな悪を行わなかったであろうか。たとい行わなかったとしても、語らなかったであろうか。たとい語らなくとも、欲しなかったであろうか。しかし主よ、あなたは善良で慈悲深くあられて、わたしの死の深淵をみて、あなたの右手をもって腐敗の淵を空にされた。こうしてわたしは、自分の欲することをまったく欲せずに、あなたの欲することを欲するようになった……。」

哲学の道を行く人間であったアウグスティヌスは、実存の苦しみを通して真理を探求し続けた後、32歳の時に回心を経験することになりましたが、彼はたった一人で信仰の道へと進んでいったのではありませんでした。アリピウスやネブリディウスといった友たちも、彼とほぼ同時期に洗礼を受けてキリスト者になったというだけでなく、彼らの回心には司教アンブロシウスを始めとする、老若男女の信仰者たちとの出会いも深く関わっていたといえます。現存在であるところの人間の「運命」は共生起するのであって、アウグスティヌスが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しながら生きること」という実存のあり方へと導かれていったのも、彼自身の哲学の歴史へのコミットメントと、彼と同じ時代を生きていたさまざまな人々との出会いなしには起こりえなかったことでしょう。その意味では、アウグスティヌスのたどった探求の道のりを記した書物であるところの『告白』は、一人の人間の魂の遍歴を記録したものであるというのにとどまらず、4世紀の地中海世界を生きた人々の「共同存在」のあり方を証言するものになっていると言うこともできるのかもしれません。

この例を通してありありと見えてくるのは、哲学する人間の生涯の道のりは、同時代を生きる人々との「共同存在」を通して、その時代の「運命」へと繋がってゆくことのただ中で歩まれてゆくということなのではないだろうか。

「おお、永遠の真理よ、真理なる愛よ、愛なる永遠よ、あなたはわたしの神であり、あなたを求めて、わたしは『夜も昼も』あえぐのである。」31歳のアウグスティヌスは、哲学の書物を読みふけることを通して〈存在〉そのものであるところの神に出会い、この出会いの出来事の後には、「永遠」なるものの存在を信じ、傷ついてまでも与えるような愛の存在を信じる実存のあり方へと導かれてゆきました。その探求は、他の誰でもない彼自身のものであったのと同時に、彼が生きた時代の「運命」そのものと深く関わるものでもあったと言えるのではないか。問いが真に問いであり、「生きることの意味はどこにあるのか?」と問うことの苦しみを通して問われるかぎり、哲学の営みは決して孤独なものにとどまることはありません。むしろ、その探求は必然的に、探求する人間が生きているその時代の「運命」に応答するものとなって、同時代の人々に、そして、彼あるいは彼女の後の時代を生きる人々に対しても何事かを伝えうるものになってゆくのではないだろうか。「生きることの根源的な意味」は、「共同存在」の生起において共振せずにはおきません。「本来的歴史性」のモメントについて語る『存在と時間』第74節の叙述はこの意味からすると、「同じ一つの時代を生きる」ということの内実を、根底的な仕方で明らかにしていると言うこともできるのかもしれません。

おわりに

「みずからの『世代』のうちでの、またそれと共に在る現存在には命運的な運命がある。その運命が、現存在のかんぜんな本来的生起をかたちづくるのである」とハイデガーは語っていますが、2023年の現在において「存在の意味への問い」を問うている私たちの探求も、現代という時代の「運命」を問うことにどこかで繋がっているのでしょうか。私たちとしては引き続き『存在と時間』の言葉に耳を傾けつつ、「歴史性」の問題を掘り下げてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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